のウ※[#小書き片仮名ヰ、20−下−20]スキイだつたが――取られて、望み多い未来を、不当に予告なしに、切り取られてしまつた情なさ、淋しさは、どんなであつただらう。彼は、息を引き取るとき、親兄弟の優しい慰藉の言葉に、どんなに渇ゑたことだらう。殊に、母か姉妹か、或は恋人かの女性としての優しい愛の言葉を、どんなに欲しただらう。彼が、口走つた瑠璃子と云ふ言葉は、屹度《きつと》、さうした女性の名前に違ひないと思つた。
その裡に、信一郎の心に、青年の遺した言葉が考へられ始めた。彼は、最初にかう疑つて見た。他人同然の彼に、何《ど》うして時計のことを云つたのだらう。若《も》し、時計が誰かに返さるべきものなら名乗り合つたばかりの信一郎などに頼まないでも、遺族の人の手で、当然返さるべきものではなからうか。が、信一郎は、直ぐかう思ひ返した。青年はノートの内容も、時計を返すことも、遺族の人々には知られたくなかつたのだらう。親兄弟には、飽くまでも、秘密にして置きたかつたのであらう。而も秘密に時計を返すには、信一郎に頼む外には、何の手段もなかつたのだ。人間が人間を信じることが一つの美徳であるやうに、此青年も必死の場合に、心から信一郎を信頼したのだらう。いや、信頼する外には、何の手段もなかつたのだ。
信一郎は、青年の死際の懸命の信頼を、心に深く受け入れずにはをられなかつた。名乗り合つたばかりの自分に、心からの信頼を置いてゐる。人間として、男として、此の信頼に背く訳には、行かないと思つた。
人が、臨終の時に為す信頼は、基督正教《カトリック》の信徒が、死際の懺悔と同じやうに、神聖な重大なものに違ひないと思つた。縦令《たとひ》、三十分四十分の交際であらうとも、頼まれた以上、忠実に、その信頼に酬いねばならぬと思つた。
さう思ひながら、信一郎は死者の右の手首から、恐る恐る時計を脱《はづ》して見た。時計も、それを腕に捲く腕輪も、銀か白銅《ニッケル》らしい金属で出来てゐた。ガラスは、その持主の悲惨な最期に似て、微塵に砕け散つてゐた。夕暮の光の中で、透して見ると、腕輪に附いてゐる止め金が、衝突のとき、皮肉を切つたのだらう。軽い出血があつたと見え、その白つぽい時計の胴に、所々真赤な血が浸《にじ》んでゐた。今までは、興奮のために夢中になつてゐた信一郎も、それを見ると、今更ながら、青年の最期の、むごたらしさ
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