もいゝだらうか。もし、臨検の巡査にでも、咎められたら、何と返事をしたらいゝだらう。死人に口なく、死に去つた青年が、自分のために、弁解して呉れる筈はない。自分は、人の死屍から、高貴な物品を、剥ぎ取る恐ろしい卑しい盗人と思はれても、何の云ひ訳もないではないか。青年の遺言を受けたと抗弁しても、果して信じられるだらうか。
 さう考へると、信一郎の心は、だん/\迷ひ始めた。妙ないきがかり[#「いきがかり」に傍点]から、他人の秘密にまで立ち入つて、返すべき人の名前さへ、判然とはしない時計などを預つて、つまらぬ心配や気苦労をするよりも、たゞ乗り合はした一個の旅の道伴《みちづれ》として、遺言も何も、聴かなかつたことにしようかしら。
 が、かう考へたとき、信一郎の心の耳に、『お願ひで――お願ひです。時計を返して下さい。』と云ふ青年の、血に咽ぶ断末魔の悲壮な声が、再び鳴り響いた。それに応ずるやうに、信一郎の良心が、『貴様は卑怯だぞ。貴様は卑怯だぞ。』と、低く然しながら、力強く囁《さゝや》いた。
『さうだ。さうだ。兎に角、瑠璃子と云ふ女性を探して見よう。たとひ、それが時計を返すべき人でないにしろ、その人は屹度《きつと》、此の青年に一番親しい人に違ひない。その人が、屹度時計を返すべき本当の人を、教へて呉れるのに違ひない。又、自分が時計を盗んだと云ふやうな、不当な疑ひを受けたとき、此人が屹度弁解して呉れるのに違ひない。』
 信一郎は、『瑠璃子』と云ふ三字を頼りにして、自分の物でない時計を、ポケット深く、蔵《おさ》めようとした。
 その時に、急に近よつて来る人声がした。彼は、悪い事でもしてゐたやうに、ハツと驚いて振り返つた。警察の提灯を囲んで、四五人の人が、足早に駈け付けて来るやうだつた。

        六

 駈け付けて来たのは、オド/\してゐる運転手を先頭にして、年若い巡査と、医者らしい袴をつけた男と、警察の小使らしい老人との四人であつた。
 信一郎は、彼等を迎へるべく扉を開けて、路上へ降りた。
 巡査は提灯を車内に差し入れるやうにしながら、
「何うです。負傷者は?」と、訊いた。
「先刻《さつき》息を引き取つたばかりです。何分胸部をひどく、やられたものですから、助からなかつたのです。」と、信一郎は答へた。
 暫らくは、誰もが口を利かなかつた。運転手が、ブル/\顫へ出したのが、ほの暗い提
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