落しようとしたとき、青年は車から飛び降りるべく、咄嗟に右の窓を開けたに違ひなかつた。もし、さうだとすると、車体が最初怖れられたやうに、海中に墜落したとすれば、死ぬ者は信一郎と運転手とで、助かる者は此青年であつたかも知れなかつた。
 車体が、急転したとき、信一郎と青年の運命も咄嗟に転換したのだつた。自動車の苟《かりそ》めの合乗《あひのり》に青年と信一郎とは、恐ろしい生死の活劇に好運悪運の両極に立つたわけだつた。
 信一郎は、さう考へると、結果の上からは、自分が助かるための犠牲になつたやうな、青年のいたましい姿を、一層あはれまずにはゐられなかつた。
 彼は、ふとウ※[#小書き片仮名ヰ、17−上−16]スキイの小壜がトランクの中にあることを思ひ出した。それを、飲ますことが、かうした重傷者に何《ど》う云ふ結果を及ぼすかは、ハツキリと判らなかつた。が、彼としては此の場合に為し得る唯一の手当であつた。彼は青年の頭を座席の上に、ソツと下すとトランクを開けて、ウ※[#小書き片仮名ヰ、17−上−21]スキイの壜を取り出した。

        二

 口中に注ぎ込まれた数滴のウ※[#小書き片仮名ヰ、17−下−2]スキイが、利いたのか、それとも偶然さうなつたのか、青年の白く湿《うる》んでゐた眸が、だん/\意識の光を帯び始めた。それと共に、意味のなかつたうめき声が切れ切れではあるが、言葉の形を採り始めた。
「気を確《たしか》にしたまへ! 気を! 君! 君! 青木君!」信一郎は、力一杯に今覚えたばかりの青年の名を呼び続けた。
 青年は、ぢつと眸を凝すやうであつた。劇しい苦痛の為に、ともすれば飛び散りさうになる意識を懸命に取り蒐めようとするやうだつた。彼は、ぢいつと、信一郎の顔を、見詰めた。やつと自分を襲つた禍《わざはひ》の前後を思ひ出したやうであつた。
「何《ど》うです。気が付きましたか。青木君! 気を確にしたまへ! 直ぐ医者が来るから。」
 青年は意識が帰つて来ると、此の苟《かりそめ》の旅の道連《みちづれ》の親切を、しみ/″\と感じたのだらう。
「あり――ありがたう。」と、苦しさうに云ひながら、感謝の微笑を湛へようとしたが、それは劃《しきり》なく襲うて来る苦痛の為に、跡なく崩れてしまつた。腸《はらわた》をよぢるやうな、苦悶の声が、続いた。
「少しの辛抱です。直ぐ医者が来ます。」
 信一郎
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