は、相手の苦悶のいた/\しさに、狼狽しながら答へた。
青年は、それに答へようとでもするやうに、身体を心持起しかけた。その途端だつた。苦しさうに咳き込んだかと思ふと、顎から洋服の胸へかけて、流れるやうな多量の血を吐いた。それと同時に、今迄充血してゐた顔が、サツと蒼ざめてしまつた。
青年の顔には、既に死相が読まれた。内臓が、外部からの劇しい衝動の為に、内出血をしたことが余りに明かだつた。
医学の心得の少しもない信一郎にも、もう青年の死が、単に時の問題であることが分つた。青年の顔に血色がなかつた如く、信一郎の面《おもて》にも、血の色がなかつた。彼は、彼と偶然知己になつて、直ぐ死に去つて行く、ホンの瞬間の友達の運命を、ぢつと見詰めてゐる外はなかつた。
太平洋を圧してゐる、密雲に閉ざされたまゝ、日は落ちてしまつた。夕闇の迫つてゐる崖端《がけばな》の道には、人の影さへ見えなかつた。瀕死の負傷者を見守る信一郎は、ヒシ/\と、身に迫る物凄い寂寥を感じた。負傷者のうめき声の絶間には、崖下の岩を洗ふ浪の音が淋しく聞えて来た。
吐血をしたまゝ、仰向けに倒れてゐた青年は、ふと頭を擡げて何かを求めるやうな容子をした。
「何です! 何です!」信一郎は、掩ひかぶさるやうにして訊いた。
「僕の――僕の――鞄《トランク》!」
口中の血に咽せるのであらう、青年は喘ぎ喘ぎ絶え入るやうな声で云つた。信一郎は、車中を見廻した。青年が、携へてゐた旅行用の小形の鞄《トランク》は座席の下に横倒しになつてゐるのだつた。信一郎は、それを取り上げてやつた。青年は、それを受け取らうとして、両手を出さうとしたが、彼の手はもう彼の思ふやうには、動きさうにもなかつた。
「一体、此の鞄《トランク》を何うするのです。」
青年は、何か答へようとして、口を動かした。が、言葉の代りに出たものは、先刻の吐血の名残りらしい少量の血であつた。
「開けるのですか。開けるのですか。」
青年は肯かうとした。が、それも肯かうとする意志だけを示したのに、過ぎなかつた。信一郎は鞄《トランク》を開けにかゝつた。が、それには鍵がかゝつてゐると見え、容易には開かなかつた。が、此場合瀕死の重傷者に、鍵の在処を尋ねるなどは、余りに心ないことだつた。信一郎は、満身の力を振つて、捻ぢ開けた。金物に付いて、革がベリ/\と、二三寸引き裂かれた。
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