もの癖であるように、妻の松の前や、娘の鶴の前の姿がまばろしのように、胸の中に浮んでくる。それから、京極の宿所の釣殿《つりどの》や、鹿ヶ谷の山荘の泉石《せんせき》のたたずまいなどが、髣髴《ほうふつ》として思い出される。都会生活に対するあこがれが心を爛《ただ》らせる。たくさん使っていた下僕《しもべ》の一人でもが、今|侍《かしず》いていてくれればなどと思う。
 俊寛が、こうした回想に耽《ふけ》っているとき、寝入っていたと思った成経が急に立ち上った。彼は、悲鳴とも歓声ともつかない声を出したかと思うと、砂丘を海の方へ一散に駆け降りた。
 彼は、波打|際《ぎわ》に立つと、躍るように両手を打ち振った。
「判官どの。白帆にて候ぞ。白帆にて候ぞ」
 そういって、康頼に知らせると、また悲鳴のような声をあげながら、浜辺を北へ北へと走った。
 康頼も、あわただしい声にすぐ起き上った。俊寛も、白帆だときくと、すぐ立ち上らずにはいられなかったが、白帆が見えるといって成経が浜辺を走ったことは、これまでに二、三度あった。彼はよく白雲の影を白帆と間違えたり、波間に浮ぶ白鳥から、白帆の幻影を見た。
 康頼は、さすがにすぐ後に続いて走ったが、俊寛はまたかと思いながら、無言のまま、跡からついて行った。成経と康頼とは砂浜を根よく走りつづけた。俊寛も、彼らの熱心な走り方を見ると、自分の足並みが、いつの間にか、急ぎ足になるのをどうともすることができなかった。
 そのうちに、疑い深い俊寛の瞳にも、遥かかなたの水平線に、波に浮んでいる白千鳥のように、白い帆をいっぱいに張りながら、折柄の微風に、動くともなく近づいて来る船の姿が映らずにはいなかった。
 俊寛も、狂気のように走り出した。三人は半町ばかり隔りながら、懸命に走った。お互いに立ち止って待ち合せる余裕などはなかった。走るに従って、白帆もだんだん近づいて来るのだった。それは、九州から硫黄を買いに来る船のような小さい船ではなかった。
 成経は、感激のために泣きながら走っている。康頼もそうだった。俊寛も、胸が熱くるしくなって、目頭《めがしら》が妙にむずがゆくなってくるのを感じた。見ると、船の舳《へさき》には、一流の赤旗がへんぽん[#「へんぽん」に傍点]と翻《ひるがえ》っている。平家の兵船だと思うと、その船に赦免《しゃめん》の使者が乗っていることが三人にすぐ感ぜられた。
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