ために、自分の持物の中で、土人の欲しがりそうなものをいろいろ考えてみた。土人の欲しがりそうなものは、自分の生活にも欠くべからざるものだった。俊寛は、ふと鳥羽《とば》で別れるとき、妻の松の前から形見《かたみ》に贈られた素絹《しろぎぬ》の小袖を、今もなおそのままに、持っているのに気がついた。それは、現在の彼にとって、過去の生活に対する唯一の記念物だった。彼は、一晩考えた末、この過去の生活に対する記念物を、現在の生活の必須品《ひっすひん》に換えることを決心した。彼は、いとしい妻の形見を一袋の麦に換えた。そして、それを彼が自分で拓いた土地に、蒔いた。
自分で拓いた土地に、自分の手で蒔いた種の生えるのを見ることは、人間の喜びの中では、いちばん素晴らしいものであることを、俊寛は悟った。ほのかな麦の芽が、磽※[#「石+角」、第3水準1−89−6]《ぎょうかく》な地殻からおぞおぞと頭を擡《もた》げるのを見たとき、俊寛は嬉し涙に咽《むせ》んだ。彼は跪《ひざまず》いて、目に見えぬ何物かに、心からの感謝を捧げたかった。
鬼界ヶ島にも春はめぐってくる。島の周囲の海が、薄紫に輝きはじめる。そして、全島には、椿《つばき》の花が一面に咲く。信天翁《あほうどり》が、一日一日多くなって、硫黄ヶ岳の中腹などには、雪が降ったように、集っている。
生れて初めての自然生活は、俊寛を見違えるような立派な体格にした。生白かった頬は、褐色に焼けて輝いた。去年、着続けていた僧侶の服は、いろいろのことをするのに不便なので、思い切ってそれを脱ぎ捨て、思い切って皮かつらを身にまとった。生年三十四歳。その壮年の肉体には、原始人らしいすべての活力が現れ出した。彼は、生え伸びた髪を無造作に藁《わら》で束ねた。六尺豊かの身体は、鬼のような土人と比べてさえ、一際《ひときわ》立ち勝《まさ》って見えた。
彼は、時々自分の顔を、水鏡《みずかがみ》で映して見る。が、その変りはてた姿を、あさましいなどと思ったことはない。むろん現在の彼には、妻子が時々思い出されるだけで、清盛のことなどは、念頭になかった。平家が、千里のかなたで奢《おご》っていようがいまいが、そんなことは、どちらでもよかった。それよりも彼は、自分が植えつけた麦が成長するのが、一日千秋の思いで待たれた。
麦の畑に生《お》うる雑草を取ることは、彼の半日の仕事として、十分だ
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