れずにいる。そう思うと、譲吉は自分の心がだんだん暗くなっていった。二年前までは、ニコニコ絣を着て、穴のあいたセルの袴を着け、ニッケルの弁当箱を包んで毎日のように通っていた自分が、今では高貴織の揃いか何かを着て、この頃新調したラクダの外套を着て、金縁の眼鏡をかけて、一個の紳士といったようなものになって下足を預ける。自分の顔を知っているかも知れないあの大男は、一体どんな気持ちで自分の下駄を預かるだろう。あの尻切れ草履を預けて、下足札を貰えなかった自分と、今の自分とは夢のようにかけはなれている。あの草履の代りに、柾目の正しく通った下駄を預けることができるが、預ける人はやっぱり同じ大男の爺だ。そう思うと、譲吉はあの男に、心からすまないように思われた。どうか、自分を忘れてしまってくれ、自分がすまなく思っているような気持が、先方の胸に起らないでくれと譲吉は願った。
 そんなことを思いながら、いつの間にか、美術学校に添うて、図書館の白い建物の前に来た。左手に婦人閲覧室のできているのが目新しいだけで、門の石柱も玄関の様子も、閲覧券売場の様子も少しも変っていなかった。彼は閲覧券売場の窓口に近づいて、十銭
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