出世
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)暢気《のんき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)見|出《いだ》して

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
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 譲吉は、上野の山下で電車を捨てた。
 二月の終りで、不忍の池の面を撫でてくる風は、まだ冷たかったが、薄暖い早春の日の光を浴びている楓や桜の大樹の梢は、もうほんのりと赤みがかっているように思われた。
 ずいぶん図書館へも来なかったなと、譲吉は思った。図書館でゆっくりと半日を暮し得るほどの暇もなかった過去一、二年の生活が、今さらのように振りかえられた。それと同時に、そうした繁劇な生活からやっと逃れることができて、暢気《のんき》に図書館へでも来られるようになった現在の境遇を喜ばずにはおられなかった。
 もう一、二年も来なかったかも知れない。いや職業を得てからは、一度も来なかったかも知れないと、彼は思った。兎の耳のように、ひっそいだように突っ立っている白い建物、安定を保っているようで、そのくせ今にも落ちかかりそうに思われるあの白煉瓦の建
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