思うし、自分の方が負けてとうとう下足札を貰えなかったようにも思える。
 が、とにかくあのこと以来、あの大男の爺は自分の顔を、はっきりと覚えているに違いないと彼は思った。むろん、譲吉はそうした喧嘩をしたために、あの男に対する同情を、少しも無くしはしなかった。ああした暗い生き甲斐のない生活をあわれむ心は、少しも変っていなかった。
 彼がどんなに窮迫しているときでも、図書館へ行って、彼らが昔ながらにあの暗い地下室で蠢いているのを見ると、俺の生活がこの先どんなに逼迫しても、あすこまで行くのにはまだ間があるというような、妙な慰めを感ずると同時に、生涯日の目も見ずに、あの地下室で一生を送らねばならぬ彼らを、悼ましく思わずにはおられなかった。

 あの二人は、やっぱりいるに違いない。火鉢にぶつりともいわずに、くすんだ顔をして向い合っているに違いない。あの生活から脱却する機会は死ぬまで彼らには来ないのだと譲吉は思った。あの図書館へ来る幾百幾千という青年が、多少の落伍者はあるとして、それぞれ目的を達して、世の中へ打って出るにもかかわらず、あの爺は永久に下足番をしている。あの暗い地下室から、永久に這い出さ
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