札を出しながら、
「特別一枚!」と、いった。すると、思いがけなく、
「やあ、長い間、来ませんでしたね」と、中から挨拶した。譲吉はおどろいて、相手を凝視した。それはまぎれもなくあの爺だった。
「ああ、君か!」と、譲吉は少しあわてて頓狂な声を出した。向うはその太い眉をちょっと微笑するような形に動かしたが、何もいわずに青い切符と、五銭白銅とを出した。
 譲吉は、何ともいえない嬉しい心持がしながら、下足の方へと下った。死ぬまで、下足をいじっていなければならないと思ったあの男が、立派に出世している。それは、判任官が高等官になり勅任官になるよりも、もっと仕甲斐《しがい》のある出世かも知れなかった。獣か何かのように、年百年中薄闇に蠢いているのとは違って、蒲団の上に座り込んで、小奇麗な切符を扱っていればいい。月給の昇額はほんのわずかでも、あの男にとっては、どれほど嬉しいか分からない。あんなに無愛想であった男が、向うから声をかけたことを考えても、あの境遇に十分満足しているに違いないと思った。人生のどんな隅にも、どんなつまらなそうな境遇にも、やっぱり望みはあるのだ。そう思うと、譲吉は世の中というものが、今
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