おんな》と、一|匹《ぴき》の牡猫《おねこ》と、一|羽《わ》の牝鶏《めんどり》とが住《す》んでいるのでした。猫《ねこ》はこの女御主人《おんなごしゅじん》から、
「忰《せがれ》や。」
と、呼《よ》ばれ、大《だい》の御《ご》ひいき者《もの》でした。それは背中《せなか》をぐいと高《たか》くしたり、喉《のど》をごろごろ鳴《な》らしたり逆《ぎゃく》に撫《な》でられると毛《け》から火《ひ》の子《こ》を出《だ》す事《こと》まで出来《でき》ました。牝鶏《めんどり》はというと、足《あし》がばかに短《みじか》いので
「ちんちくりん。」
と、いう綽名《あだな》を貰《もら》っていましたが、いい卵《たまご》を生《う》むので、これも女御主人《おんなごしゅじん》から娘《むすめ》の様《よう》に可愛《かわい》がられているのでした。
さて朝《あさ》になって、ゆうべ入《はい》って来《き》た妙《みょう》な訪問者《ほうもんしゃ》はすぐ猫達《ねこたち》に見《み》つけられてしまいました。猫《ねこ》はごろごろ喉《のど》を鳴《な》らし、牝鶏《めんどり》はクックッ鳴《な》きたてはじめました。
「何《なん》だねえ、その騒《さわ》ぎは。」
と、お婆《ばあ》さんは部屋中《へやじゅう》見廻《みまわ》して言《い》いましたが、目《め》がぼんやりしているものですから、子家鴨《こあひる》に気《き》がついた時《とき》、それを、どこかの家《うち》から迷《まよ》って来《き》た、よくふとった家鴨《あひる》だと思《おも》ってしまいました。
「いいものが来《き》たぞ。」
と、お婆《ばあ》さんは云《い》いました。
「牡家鴨《おあひる》でさえなけりゃいいんだがねえ、そうすりゃ家鴨《あひる》の卵《たまご》が手《て》に入《はい》るというもんだ。まあ様子《ようす》を見《み》ててやろう。」
そこで子家鴨《こあひる》は試《ため》しに三|週間《しゅうかん》ばかりそこに住《す》む事《こと》を許《ゆる》されましたが、卵《たまご》なんか一《ひと》つだって、生《うま》れる訳《わけ》はありませんでした。
この家《うち》では猫《ねこ》が主人《しゅじん》の様《よう》にふるまい、牝鶏《めんどり》が主人《しゅじん》の様《よう》に威張《いば》っています。そして何《なに》かというと
「我々《われわれ》この世界《せかい》。」
と、言《い》うのでした。それは自分達《じぶんたち》が世界《せかい》の半分《はんぶん》ずつだと思《おも》っているからなのです。ある日《ひ》牝鶏《めんどり》は子家鴨《こあひる》に向《むか》って、
「お前《まえ》さん、卵《たまご》が生《う》めるかね。」
と、尋《たず》ねました。
「いいえ。」
「それじゃ何《なん》にも口出《くちだ》しなんかする資格《しかく》はないねえ。」
牝鶏《めんどり》はそう云《い》うのでした。今度《こんど》は猫《ねこ》の方《ほう》が、
「お前《まえ》さん、背中《せなか》を高《たか》くしたり、喉《のど》をごろつかせたり、火《ひ》の子《こ》を出《だ》したり出来《でき》るかい。」
と、訊《き》きます。
「いいえ。」
「それじゃ我々《われわれ》偉《えら》い方々《かたがた》が何《なに》かものを言《い》う時《とき》でも意見《いけん》を出《だ》しちゃいけないぜ。」
こんな風《ふう》に言《い》われて子家鴨《こあひる》はひとりで滅入《めい》りながら部屋《へや》の隅《すみ》っこに小《ちい》さくなっていました。そのうち、温《あたたか》い日《ひ》の光《ひかり》や、そよ風《かぜ》が戸《と》の隙間《すきま》から毎日《まいにち》入《はい》る様《よう》になり、そうなると、子家鴨《こあひる》はもう水《みず》の上《うえ》を泳《およ》ぎたくて泳《およ》ぎたくて堪《たま》らない気持《きもち》が湧《わ》き出《だ》して来《き》て、とうとう牝鶏《めんどり》にうちあけてしまいました。すると、
「ばかな事《こと》をお言《い》いでないよ。」
と、牝鶏《めんどり》は一口《ひとくち》にけなしつけるのでした。
「お前《まえ》さん、ほかにする事《こと》がないもんだから、ばかげた空想《くうそう》ばっかしする様《よう》になるのさ。もし、喉《のど》を鳴《なら》したり、卵《たまご》を生《う》んだり出来《でき》れば、そんな考《かんが》えはすぐ通《とお》り過《す》ぎちまうんだがね。」
「でも水《みず》の上《うえ》を泳《およ》ぎ廻《まわ》るの、実際《じっさい》愉快《ゆかい》なんですよ。」
と、子家鴨《こあひる》は言《い》いかえしました。
「まあ水《みず》の中《なか》にくぐってごらんなさい、頭《あたま》の上《うえ》に水《みず》が当《あた》る気持《きもち》のよさったら!」
「気持《きもち》がいいだって! まあお前《まえ》さん気《き》でも違《ちが》ったのかい、誰《たれ》よりも賢《かしこ》いここの猫《ねこ》さんにでも、女御主人《おんなごしゅじん》にでも訊《き》いてごらんよ、水《みず》の中《なか》を泳《およ》いだり、頭《あたま》の上《うえ》を水《みず》が通《とお》るのがいい気持《きもち》だなんておっしゃるかどうか。」
牝鶏《めんどり》は躍気《やっき》になってそう言《い》うのでした。子家鴨《こあひる》は、
「あなたにゃ僕《ぼく》の気持《きもち》が分《わか》らないんだ。」
と、答えました。
「分《わか》らないだって? まあ、そんなばかげた事《こと》は考《かんが》えない方《ほう》がいいよ。お前《まえ》さんここに居《い》れば、温《あたた》かい部屋《へや》はあるし、私達《わたしたち》からはいろんな事《こと》がならえるというもの。私《わたし》はお前《まえ》さんのためを思《おも》ってそう言《い》って上《あ》げるんだがね。とにかく、まあ出来《でき》るだけ速《はや》く卵《たまご》を生《う》む事《こと》や、喉《のど》を鳴《なら》す事《こと》を覚《おぼ》える様《よう》におし。」
「いや、僕《ぼく》はもうどうしてもまた外《そと》の世界《せかい》に出《で》なくちゃいられない。」
「そんなら勝手《かって》にするがいいよ。」
そこで子家鴨《こあひる》は小屋《こや》を出《で》て行《い》きました。そしてまもなく、泳《およ》いだり、潜《くぐ》ったり出来《でき》る様《よう》な水《みず》の辺《あた》りに来《き》ましたが、その醜《みにく》い顔容《かおかたち》のために相変《あいか》らず、他《ほか》の者達《ものたち》から邪魔《じゃま》にされ、はねつけられてしまいました。そのうち秋《あき》が来《き》て、森《もり》の木《き》の葉《は》はオレンジ色《いろ》や黄金色《おうごんいろ》に変《かわ》って来《き》ました。そして、だんだん冬《ふゆ》が近《ちか》づいて、それが散《ち》ると、寒《さむ》い風《かぜ》がその落葉《おちば》をつかまえて冷《つめた》い空中《くうちゅう》に捲《ま》き上《あ》げるのでした。霰《あられ》や雪《ゆき》をもよおす雲《くも》は空《そら》に低《ひく》くかかり、大烏《おおがらす》は羊歯《しだ》の上《うえ》に立《た》って、
「カオカオ。」
と、鳴《な》いています。それは、一目《ひとめ》見《み》るだけで寒《さむ》さに震《ふる》え上《あが》ってしまいそうな様子《ようす》でした。目《め》に入《はい》るものみんな、何《なに》もかも、子家鴨《こあひる》にとっては悲《かな》しい思《おも》いを増《ま》すばかりです。
ある夕方《ゆうがた》の事《こと》でした。ちょうどお日様《ひさま》が今《いま》、きらきらする雲《くも》の間《あいだ》に隠《かく》れた後《のち》、水草《みずくさ》の中《なか》から、それはそれはきれいな鳥《とり》のたくさんの群《むれ》が飛《と》び立《た》って来《き》ました。子家鴨《こあひる》は今《いま》までにそんな鳥《とり》を全《まった》く見《み》た事《こと》がありませんでした。それは白鳥《はくちょう》という鳥《とり》で、みんな眩《まばゆ》いほど白《しろ》く羽《はね》を輝《かがや》かせながら、その恰好《かっこう》のいい首《くび》を曲《ま》げたりしています。そして彼等《かれら》は、その立派《りっぱ》な翼《つばさ》を張《は》り拡《ひろ》げて、この寒《さむ》い国《くに》からもっと暖《あたたか》い国《くに》へと海《うみ》を渡《わた》って飛《と》んで行《い》く時《とき》は、みんな不思議《ふしぎ》な声《こえ》で鳴《な》くのでした。子家鴨《こあひる》はみんなが連《つ》れだって、空《そら》高《たか》くだんだんと昇《のぼ》って行《い》くのを一心《いっしん》に見《み》ているうち、奇妙《きみょう》な心持《こころもち》で胸《むね》がいっぱいになってきました。それは思《おも》わず自分《じぶん》の身《み》を車《くるま》か何《なん》ぞの様《よう》に水《みず》の中《なか》に投《な》げかけ、飛《と》んで行《い》くみんなの方《ほう》に向《むか》って首《くび》をさし伸《の》べ、大《おお》きな声《こえ》で叫《さけ》びますと、それは我《われ》ながらびっくりしたほど奇妙《きみょう》な声《こえ》が出《で》たのでした。ああ子家鴨《こあひる》にとって、どうしてこんなに美《うつく》しく、仕合《しあわ》せらしい鳥《とり》の事《こと》が忘《わす》れる事《こと》が出来《でき》たでしょう! こうしてとうとうみんなの姿《すがた》が全《まった》く見《み》えなくなると、子家鴨《こあひる》は水《みず》の中《なか》にぽっくり潜《くぐ》り込《こ》みました。そしてまた再《ふたた》び浮《う》き上《あが》って来《き》ましたが、今《いま》はもう、さっきの鳥《とり》の不思議《ふしぎ》な気持《きもち》にすっかりとらわれて、我《われ》を忘《わす》れるくらいです。それは、さっきの鳥《とり》の名《な》も知《し》らなければ、どこへ飛《と》んで行《い》ったのかも知《し》りませんでしたけれど、生《うま》れてから今《いま》までに会《あ》ったどの鳥《とり》に対《たい》しても感《かん》じた事《こと》のない気持《きもち》を感《かん》じさせられたのでした。子家鴨《こあひる》はあのきれいな鳥達《とりたち》を嫉《ねた》ましく思《おも》ったのではありませんでしたけれども、自分《じぶん》もあんなに可愛《かわい》らしかったらなあとは、しきりに考《かんが》えました。可哀《かわい》そうにこの子家鴨《こあひる》だって、もとの家鴨達《あひるたち》が少《すこ》し元気《げんき》をつける様《よう》にしてさえくれれば、どんなに喜《よろこ》んでみんなと一緒《いっしょ》に暮《くら》したでしょうに!
さて、寒《さむ》さは日々《ひび》にひどくなって来《き》ました。子家鴨《こあひる》は水《みず》が凍《こお》ってしまわない様《よう》にと、しょっちゅう、その上《うえ》を泳《およ》ぎ廻《まわ》っていなければなりませんでした。けれども夜毎々々《よごとよごと》に、それが泳《およ》げる場所《ばしょ》は狭《せま》くなる一方《いっぽう》でした。そして、とうとうそれは固《かた》く固《かた》く凍《こお》ってきて、子家鴨《こあひる》が動《うご》くと水《みず》の中《なか》の氷《こおり》がめりめり割《わ》れる様《よう》になったので、子家鴨《こあひる》は、すっかりその場所《ばしょ》が氷《こおり》で、閉《と》ざされてしまわない様《よう》力《ちから》限《かぎ》り脚《あし》で水《みず》をばちゃばちゃ掻《か》いていなければなりませんでした。そのうちしかしもう全《まった》く疲《つか》れきってしまい、どうする事《こと》も出来《でき》ずにぐったりと水《みず》の中《なか》で凍《こご》えてきました。
が、翌朝《よくあさ》早《はや》く、一人《ひとり》の百姓《ひゃくしょう》が[#「百姓が」は底本では「百性が」]そこを通《とお》りかかって、この事《こと》を見《み》つけたのでした。彼《かれ》は穿《は》いていた木靴《きぐつ》で氷《こおり》を割《わ》り、子家鴨《こあひる》を連《つ》れて、妻《つま》のところに帰《かえ》って来《き》ました。温《あたた》まってくるとこの可哀《かわい》そうな生《い》き物《もの》
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