は息《いき》を吹《ふ》きかえして来《き》ました。けれども子供達《こどもたち》がそれと一緒《いっしょ》に遊《あそ》ぼうとしかけると、子家鴨《こあひる》は、みんながまた何《なに》か自分《じぶん》にいたずらをするのだと思《おも》い込《こ》んで、びっくりして跳《と》び立《た》って、ミルクの入《はい》っていたお鍋《なべ》にとび込《こ》んでしまいました。それであたりはミルクだらけという始末《しまつ》。おかみさんが思《おも》わず手《て》を叩《たた》くと、それはなおびっくりして、今度《こんど》はバタの桶《おけ》やら粉桶《こなおけ》やらに脚《あし》を突《つ》っ込《こ》んで、また匐《は》い出《だ》しました。さあ大変《たいへん》な騒《さわ》ぎです。おかみさんはきいきい言《い》って、火箸《ひばし》でぶとうとするし、子供達《こどもたち》もわいわい燥《はしゃ》いで、捕《つかま》えようとするはずみにお互《たが》いにぶつかって転《ころ》んだりしてしまいました。けれども幸《さいわ》いに子家鴨《こあひる》はうまく逃《に》げおおせました。開《ひら》いていた戸《と》の間《あいだ》から出《で》て、やっと叢《くさむら》の中《なか》まで辿《たど》り着《つ》いたのです。そして新《あら》たに降《ふ》り積《つも》った雪《ゆき》の上《うえ》に全《まった》く疲《つか》れた身《み》を横《よこ》たえたのでした。
この子家鴨《こあひる》が苦《くる》しい冬《ふゆ》の間《あいだ》に出遭《であ》った様々《さまざま》な難儀《なんぎ》をすっかりお話《はな》しした日《ひ》には、それはずいぶん悲《かな》しい物語《ものがたり》になるでしょう。が、その冬《ふゆ》が過《す》ぎ去《さ》ってしまったとき、ある朝《あさ》、子家鴨《こあひる》は自分《じぶん》が沢地《たくち》の蒲《がま》の中《なか》に倒《たお》れているのに気《き》がついたのでした。それは、お日様《ひさま》が温《あたたか》く照《て》っているのを見《み》たり、雲雀《ひばり》の歌《うた》を聞《き》いたりして、もうあたりがすっかりきれいな春《はる》になっているのを知《し》りました。するとこの若《わか》い鳥《とり》は翼《つばさ》で横腹《よこばら》を摶《う》ってみましたが、それは全《まった》くしっかりしていて、彼《かれ》は空《そら》高《たか》く昇《のぼ》りはじめました。そしてこの翼《つばさ》はどんどん彼《かれ》を前《まえ》へ前《まえ》へと進《すす》めてくれます。で、とうとう、まだ彼《かれ》が無我夢中《むがむちゅう》でいる間《あいだ》に大《おお》きな庭《にわ》の中《なか》に来《き》てしまいました。林檎《りんご》の木《き》は今《いま》いっぱいの花《はな》ざかり、香《かぐ》わしい接骨木《にわどこ》はビロードの様《よう》な芝生《しばふ》の周《まわ》りを流《なが》れる小川《おがわ》の上《うえ》にその長《なが》い緑《みどり》の枝《えだ》を垂《た》れています。何《なに》もかも、春《はる》の初《はじ》めのみずみずしい色《いろ》できれいな眺《なが》めです。このとき、近《ちか》くの水草《みずくさ》の茂《しげ》みから三|羽《わ》の美《うつく》しい白鳥《はくちょう》が、羽《はね》をそよがせながら、滑《なめ》らかな水《みず》の上《うえ》を軽《かる》く泳《およ》いであらわれて来《き》たのでした。子家鴨《こあひる》はいつかのあの可愛《かわ》らしい鳥《とり》を思《おも》い出《だ》しました。そしていつかの日《ひ》よりももっと悲《かな》しい気持《きもち》になってしまいました。
「いっそ僕《ぼく》、あの立派《りっぱ》な鳥《とり》んとこに飛《と》んでってやろうや。」
と、彼《かれ》は叫《さけ》びました。
「そうすりゃあいつ等《ら》は、僕《ぼく》がこんなにみっともない癖《くせ》して自分達《じぶんたち》の傍《そば》に来《く》るなんて失敬《しっけい》だって僕《ぼく》を殺《ころ》すにちがいない。だけど、その方《ほう》がいいんだ。家鴨《あひる》の嘴《くちばし》で突《つつ》かれたり、牝鶏《めんどり》の羽《はね》でぶたれたり、鳥番《とりばん》の女《おんな》の子《こ》に追《お》いかけられるなんかより、どんなにいいかしれやしない。」
こう思《おも》ったのです。そこで、子家鴨《こあひる》は急《きゅう》に水面《すいめん》に飛《と》び下《お》り、美《うつく》しい白鳥《はくちょう》の方《ほう》に、泳《およ》いで行《い》きました。すると、向《むこ》うでは、この新《あたら》しくやって来《き》た者《もの》をちらっと見《み》ると、すぐ翼《つばさ》を拡《ひろ》げて急《いそ》いで近《ちか》づいて来《き》ました。
「さあ殺《ころ》してくれ。」
と、可哀《かわい》そうな鳥《とり》は言《い》って頭《あたま》を水《みず》の上《うえ》に垂《た》れ、じっと殺《ころ》されるのを待《ま》ち構《かま》えました。
が、その時《とき》、鳥《とり》が自分《じぶん》のすぐ下《した》に澄《す》んでいる水《みず》の中《なか》に見《み》つけたものは何《なん》でしたろう。それこそ自分《じぶん》の姿《すがた》ではありませんか[#「ありませんか」は底本では「ありませんが」]。けれどもそれがどうでしょう、もう決《けっ》して[#「決して」は底本では「決しで」]今《いま》はあのくすぶった灰色《はいいろ》の、見《み》るのも厭《いや》になる様《よう》な前《まえ》の姿《すがた》ではないのです。いかにも上品《じょうひん》で美《うつく》しい白鳥《はくちょう》なのです。百姓家《ひゃくしょうや》の[#「百姓家の」は底本では「百性家の」]裏庭《にわ》で、家鴨《あひる》の巣《す》の中《なか》に生《うま》れようとも、それが白鳥《はくちょう》の卵《たまご》から孵《かえ》る以上《いじょう》、鳥《とり》の生《うま》れつきには何《なん》のかかわりもないのでした。で、その白鳥《はくちょう》は、今《いま》となってみると、今《いま》まで悲《かな》しみや苦《くる》しみにさんざん出遭《であ》った事《こと》が喜《よろこ》ばしい事《こと》だったという気持《きもち》にもなるのでした。そのためにかえって今《いま》自分《じぶん》とり囲《かこ》んでいる幸福《こうふく》を人《ひと》一|倍《ばい》楽《たの》しむ事《こと》が出来《でき》るからです。御覧《ごらん》なさい。今《いま》、この新《あたら》しく入《はい》って来《き》た仲間《なかま》を歓迎《かんげい》するしるしに、立派《りっぱ》な白鳥達《はくちょうたち》がみんな寄《よ》って、めいめいの嘴《くちばし》でその頸《くび》を撫《な》でているではありませんか。
幾人《いくにん》かの子供《こども》がお庭《にわ》に入《はい》って来《き》ました。そして水《みず》にパンやお菓子《かし》を投《な》げ入《い》れました。
「やっ!」
と、一番《いちばん》小《ちい》さい子《こ》が突然《とつぜん》大声《おおごえ》を出《だ》しました。そして、
「新《あたら》しく、ちがったのが来《き》てるぜ。」
そう教《おし》えたものでしたら、みんなは大喜《おおよろこ》びで、お父《とう》さんやお母《かあ》さんのところへ、雀躍《こおどり》しながら馳《か》けて行《い》きました。
「ちがった白鳥《はくちょう》が[#「白鳥が」は底本では「白鳥か」]いまーす、新《あたら》しいのが来《き》たんでーす。」
口々《くちぐち》にそんな事《こと》を叫《さけ》んで。それからみんなもっとたくさんのパンやお菓子《かし》を貰《もら》って来《き》て、水《みず》に投《な》げ入《い》れました。そして、
「新《あたら》しいのが一等《いっとう》きれいだね、若《わか》くてほんとにいいね。」
と、賞《ほ》めそやすのでした。それで年《とし》の大《おお》きい白鳥達《はくちょうたち》まで、この新《あたら》しい仲間《なかま》の前《まえ》でお辞儀《じぎ》をしました。若《わか》い白鳥《はくちょう》はもうまったく気《き》まりが悪《わる》くなって、翼《つばさ》の下《した》に頭《あたま》を隠《かく》してしまいました。彼《かれ》には一体《いったい》どうしていいのか分《わか》らなかったのです。ただ、こう幸福《こうふく》な気持《きもち》でいっぱいで、けれども、高慢《こうまん》な心《こころ》などは塵《ちり》ほども起《おこ》しませんでした。
見《み》っともないという理由《りゆう》で馬鹿《ばか》にされた彼《かれ》、それが今《いま》はどの鳥《とり》よりも美《うつく》しいと云《い》われているのではありませんか。接骨木《にわどこ》までが、その枝《えだ》をこの新《あたら》しい白鳥《はくちょう》の方《ほう》に垂《た》らし、頭《あたま》の上《うえ》ではお日様《ひさま》が輝《かがや》かしく照《て》りわたっています。新《あたら》しい白鳥《はくちょう》は羽《はね》をさらさら鳴《な》らし、細《ほ》っそりした頸《くび》を曲《ま》げて、心《こころ》の底《そこ》から、
「ああ僕《ぼく》はあの見《み》っともない家鴨《あひる》だった時《とき》、実際《じっさい》こんな仕合《しあわ》せなんか夢《ゆめ》にも思《おも》わなかったなあ。」
と、叫《さけ》ぶのでした。
底本:「小學生全集第五卷 アンデルゼン童話集」興文社、文藝春秋社
1928(昭和3)年8月1日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、次の書き換えを行いました。
「或→ある 余り→あまり 一向→いっこう 一旦→いったん 中→うち 彼→か 却って→かえって かも知れない→かもしれない 位→くらい 此処→ここ 此の→この 随分→ずいぶん 直ぐ→すぐ 其処→そこ 其・其の→その 其中→そのうち 大分→だいぶ・だいぶん 沢山→たくさん 唯→ただ 多分→たぶん 為→ため 段々→だんだん 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て居る→ておる 何→ど 何処→どこ 兎に角→とにかく 程→ほど 益々→ますます 又→また 迄→まで 間もなく→まもなく 余っぽど→よっぽど」
入力:大久保ゆう
校正:秋鹿
2006年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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