と》び出《だ》して来《き》て、それの頸《くび》のところを噛《か》んだのでした。
「何《なに》をなさるんです。」
と、母親《ははおや》はどなりました。
「これは何《なん》にも悪《わる》い事《こと》をした覚《おぼ》えなんか無《な》いじゃありませんか。」
「そうさ。だけどあんまり図体《ずたい》が大《おお》き過《す》ぎて、見《み》っともない面《つら》してるからよ。」
と、意地悪《いじわる》の家鴨《あひる》が言《い》い返《かえ》すのでした。
「だから追《お》い出《だ》しちまわなきゃ。」
すると傍《そば》から、例《れい》の赤《あか》いきれを脚《あし》につけている年寄家鴨《としよりあひる》が、
「他《ほか》の子供《こども》さんはずいみんみんなきりょう好《よ》しだねえ、あの一|羽《わ》の他《ほか》は、みんなね。お母《かあ》さんがあれだけ、もう少《すこ》しどうにか善《よ》くしたらよさそうなもんだのに。」
と、口《くち》を出《だ》しました。
「それはとても及《およ》びませぬ事《こと》で、奥方様《おくがたさま》。」
と、母親《ははおや》は答《こた》えました。
「あれは全《まった》くのところ、きりょう好《よ》しではございませぬ。しかし誠《まこと》に善《よ》い性質《せいしつ》をもっておりますし、泳《およ》ぎをさせますと、他《ほか》の子達《こたち》くらい、――いやそれよりずっと上手《じょうず》に致《いた》します。私《わたし》の考《かんが》えますところではあれも日《ひ》が経《た》ちますにつれて、美《うつく》しくなりたぶんからだも[#「からだも」は底本では「かちだも」]小《ちい》さくなる事《こと》でございましょう。あれは卵《たまご》の中《なか》にあまり長《なが》く入《はい》っておりましたせいで、からだつきが普通《なみ》に出来上《できあが》らなかったのでございます。」
そう言《い》って母親《ははおや》は子家鴨《こあひる》の頸《くび》を撫《な》で、羽《はね》を滑《なめら》かに平《たい》らにしてやりました。そして、
「何《なに》しろこりゃ男《おとこ》だもの、きりょうなんか大《たい》した事《こと》じゃないさ。今《いま》に強《つよ》くなって、しっかり自分《じぶん》の身《み》をまもる様《よう》になる。」
こんな風《ふう》に呟《つぶや》いてもみるのでした。
「実際《じっさい》、他《ほか》の子供衆《こどもしゅう》は立派《りっぱ》だよ。」
と、例《れい》の身分《みぶん》のいい家鴨《あひる》はもう一|度《ど》繰返《くりかえ》して、
「まずまず、お前《まえ》さん方《がた》もっとからだをらくになさい。そしてね、鰻《うなぎ》の頭《あたま》を見《み》つけたら、私《わたし》のところに持《も》って来《き》ておくれ。」
と、附《つ》け足《た》したものです。
そこでみんなはくつろいで、気《き》の向《む》いた様《よう》にふるまいました。けれども、あの一|番《ばん》おしまいに殻《から》から出《で》た、そしてぶきりょうな顔付《かおつ》きの子家鴨《こあひる》は、他《ほか》の家鴨《あひる》やら、その他《た》そこに飼《か》われている鳥達《とりたち》みんなからまで、噛《か》みつかれたり、突《つ》きのめされたり、いろいろからかわれたのでした。そしてこんな有様《ありさま》はそれから毎日《まいにち》続《つづ》いたばかりでなく、日《ひ》に増《ま》しそれがひどくなるのでした。兄弟《きょうだい》までこの哀《あわ》れな子家鴨《こあひる》に無慈悲《むじひ》に辛《つら》く当《あた》って、
「ほんとに見《み》っともない奴《やつ》、猫《ねこ》にでもとっ捕《つかま》った方《ほう》がいいや。」
などと、いつも悪体《あくたい》をつくのです。母親《ははおや》さえ、しまいには、ああこんな子《こ》なら生《うま》れない方《ほう》がよっぽど幸《しあわせ》だったと思《おも》う様《よう》になりました。仲間《なかま》の家鴨《あひる》からは突《つ》かれ、鶏《ひよ》っ子《こ》からは羽《はね》でぶたれ、裏庭《うらにわ》の鳥達《とりたち》に食物《たべもの》を持《も》って来《く》る娘《むすめ》からは足《あし》で蹴《け》られるのです。
堪《たま》りかねてその子家鴨《こあひる》は自分《じぶん》の棲家《すみか》をとび出《だ》してしまいました。その途中《とちゅう》、柵《さく》を越《こ》える時《とき》、垣《かき》の内《うち》にいた小鳥《ことり》がびっくりして飛《と》び立《た》ったものですから、
「ああみんなは僕《ぼく》の顔《かお》があんまり変《へん》なもんだから、それで僕《ぼく》を怖《こわ》がったんだな。」
と、思《おも》いました。それで彼《かれ》は目《め》を瞑《つぶ》って、なおも遠《とお》く飛《と》んで行《い》きますと、そのうち広《ひろ》い広《ひろ》い沢地《たくち》の上《うえ》に来《き》ました。見《み》るとたくさんの野鴨《のがも》が住《す》んでいます。子家鴨《こあひる》は疲《つか》れと悲《かな》しみになやまされながらここで一晩《ひとばん》を明《あか》しました。
朝《あさ》になって野鴨達《のがもたち》は起《お》きてみますと、見知《みし》らない者《もの》が来《き》ているので目《め》をみはりました。
「一体《いったい》君《きみ》はどういう種類《しゅるい》の鴨《かも》なのかね。」
そう言《い》って子家鴨《こあひる》の周《まわ》りに集《あつ》まって来《き》ました。子家鴨《こあひる》はみんなに頭《あたま》を下《さ》げ、出来《でき》るだけ恭《うやうや》しい様子《ようす》をしてみせましたが、そう訊《たず》ねられた事《こと》に対《たい》しては返答《へんとう》が出来《でき》ませんでした。野鴨達《のがもたち》は[#「野鴨達は」は底本では「野鴨達に」]彼《かれ》に向《むか》って、
「君《きみ》はずいぶんみっともない顔《かお》をしてるんだねえ。」
と、云《い》い、
「だがね、君《きみ》が僕達《ぼくたち》の仲間《なかま》をお嫁《よめ》にくれって言《い》いさえしなけりゃ、まあ君《きみ》の顔《かお》つきくらいどんなだって、こっちは構《かま》わないよ。」
と、つけ足《た》しました。
可哀《かわい》そうに! この子家鴨《こあひる》がどうしてお嫁《よめ》さんを貰《もら》う事《こと》など考《かんが》えていたでしょう。彼《かれ》はただ、蒲《がま》の中《なか》に寝《ね》て、沢地《たくち》の水《みず》を飲《の》むのを許《ゆる》されればたくさんだったのです。こうして二日《ふつか》ばかりこの沢地《たくち》で暮《くら》していますと、そこに二|羽《わ》の雁《がん》がやって来《き》ました。それはまだ卵《たまご》から出《で》て幾《いく》らも日《ひ》の経《た》たない子雁《こがん》で、大《たい》そうこましゃくれ者《もの》でしたが、その一方《いっぽう》が子家鴨《こあひる》に向《むか》って言《い》うのに、
「君《きみ》、ちょっと聴《き》き給《たま》え。君《きみ》はずいぶん見《み》っともないね。だから僕達《ぼくたち》は君《きみ》が気《き》に入《い》っちまったよ。君《きみ》も僕達《ぼくたち》と一緒《いっしょ》に渡《わた》り鳥《どり》にならないかい。ここからそう遠《とお》くない処《ところ》にまだほかの沢地《たくち》があるがね、そこにやまだ嫁《かたず》かない雁《がん》の娘《むすめ》がいるから、君《きみ》もお嫁《よめ》さんを貰《もら》うといいや。君《きみ》は見《み》っともないけど、運《うん》はいいかもしれないよ。」
そんなお喋《しゃべ》りをしていますと、突然《とつぜん》空中《くうちゅう》でポンポンと音《おと》がして、二|羽《わ》の雁《がん》は傷《きず》ついて水草《みずくさ》の間《あいだ》に落《お》ちて死《し》に、あたりの水《みず》は血《ち》で赤《あか》く染《そま》りました。
ポンポン、その音《おと》は[#「その音は」は底本では「その者は」]遠《とお》くで涯《はて》しなくこだまして、たくさんの雁《がん》の群《むれ》は一《いっ》せいに蒲《がま》の中《なか》から飛《と》び立《た》ちました。音《おと》はなおも四方八方《しほうはっぽう》から絶《た》え間《ま》なしに響《ひび》いて来《き》ます。狩人《かりうど》がこの沢地《たくち》をとり囲《かこ》んだのです。中《なか》には木《き》の枝《えだ》に腰《こし》かけて、上《うえ》から水草《みずくさ》を覗《のぞ》くのもありました。猟銃《りょうじゅう》から出《で》る青《あお》い煙《けむり》は、暗《くらい》い木《き》の上《うえ》を雲《くも》の様《よう》に立《た》ちのぼりました。そしてそれが水上《すいじょう》を渡《わた》って向《むこ》うへ消《き》えたと思《おも》うと、幾匹《いくひき》かの猟犬《りょうけん》が水草《みずくさ》の中に跳《と》び込《こ》んで来《き》て、草《くさ》を踏《ふ》み折《お》り踏《ふ》み折《お》り進《すす》んで行《い》きました。可哀《かわい》そうな子家鴨《こあひる》がどれだけびっくりしたか! 彼《かれ》が羽《はね》の下《した》に頭《あたま》を隠《かく》そうとした時《とき》、一|匹《ぴき》の大《おお》きな、怖《おそ》ろしい犬《いぬ》がすぐ傍《そば》を通《とお》りました。その顎《あご》を大《おお》きく開《ひら》き、舌《した》をだらりと出《だ》し、目《め》はきらきら光《ひか》らせているのです。そして鋭《するど》い歯《は》をむき出《だ》しながら子家鴨《こあひる》のそばに鼻《はな》を突《つ》っ込《こ》んでみた揚句《あげく》、それでも彼《かれ》には触《さわ》らずにどぶんと水《みず》の中《なか》に跳《と》び込《こ》んでしまいました。
「やれやれ。」
と、子家鴨《こあひる》は吐息《といき》をついて、
「僕《ぼく》は見《み》っともなくて全《まった》く有難《ありがた》い事《こと》だった。犬《いぬ》さえ噛《か》みつかないんだからねえ。」
と、思《おも》いました。そしてまだじっとしていますと、猟《りょう》はなおもその頭《あたま》の上《うえ》ではげしく続《つづ》いて、銃《じゅう》の音《おと》が水草《みずくさ》を通《とお》して響《ひび》きわたるのでした。あたりがすっかり静《しず》まりきったのは、もうその日《ひ》もだいぶん晩《おそ》くなってからでしたが、そうなってもまだ哀《あわ》れな子家鴨《こあひる》は動《うご》こうとしませんでした。何時間《なんじかん》かじっと坐《すわ》って様子《ようす》を見《み》ていましたが、それからあたりを丁寧《ていねい》にもう一|遍《ぺん》見廻《みまわ》した後《のち》やっと立《た》ち上《あが》って、今度《こんど》は非常《ひじょう》な速《はや》さで逃《に》げ出《だ》しました。畑《はたけ》を越《こ》え、牧場《ぼくじょう》を越《こ》えて走《はし》って行《い》くうち、あたりは暴風雨《あらし》になって来《き》て、子家鴨《こあひる》の力《ちから》では、凌《しの》いで行《い》けそうもない様子《ようす》になりました。やがて日暮《ひぐ》れ方《がた》彼《かれ》は見《み》すぼらしい小屋《こや》の前《まえ》に来《き》ましたが、それは今《いま》にも倒《たお》れそうで、ただ、どっち側《がわ》に倒《たお》れようかと迷《まよ》っているためにばかりまだ倒《たお》れずに立《た》っている様《よう》な家《いえ》でした。あらしはますますつのる一方《いっぽう》で、子家鴨《こあひる》にはもう一足《ひとあし》も行《い》けそうもなくなりました。そこで彼《かれ》は小屋《こや》の前《まえ》に坐《すわ》りましたが、見《み》ると、戸《と》の蝶番《ちょうつがい》が一《ひと》つなくなっていて、そのために戸《と》がきっちり閉《しま》っていません。下《した》の方《ほう》でちょうど子家鴨《こあひる》がやっと身《み》を滑《すべ》り込《こ》ませられるくらい透《す》いでいるので、子家鴨《こあひる》は静《しず》かにそこからしのび入り、その晩《ばん》はそこで暴風雨《あらし》を避《さ》ける事《こと》にしました。
この小屋《こや》には、一人《ひとり》の女《
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