ました。
「やれやれ。」
と、子家鴨《こあひる》は吐息《といき》をついて、
「僕《ぼく》は見《み》っともなくて全《まった》く有難《ありがた》い事《こと》だった。犬《いぬ》さえ噛《か》みつかないんだからねえ。」
と、思《おも》いました。そしてまだじっとしていますと、猟《りょう》はなおもその頭《あたま》の上《うえ》ではげしく続《つづ》いて、銃《じゅう》の音《おと》が水草《みずくさ》を通《とお》して響《ひび》きわたるのでした。あたりがすっかり静《しず》まりきったのは、もうその日《ひ》もだいぶん晩《おそ》くなってからでしたが、そうなってもまだ哀《あわ》れな子家鴨《こあひる》は動《うご》こうとしませんでした。何時間《なんじかん》かじっと坐《すわ》って様子《ようす》を見《み》ていましたが、それからあたりを丁寧《ていねい》にもう一|遍《ぺん》見廻《みまわ》した後《のち》やっと立《た》ち上《あが》って、今度《こんど》は非常《ひじょう》な速《はや》さで逃《に》げ出《だ》しました。畑《はたけ》を越《こ》え、牧場《ぼくじょう》を越《こ》えて走《はし》って行《い》くうち、あたりは暴風雨《あらし》になって来《き》て、子家鴨《こあひる》の力《ちから》では、凌《しの》いで行《い》けそうもない様子《ようす》になりました。やがて日暮《ひぐ》れ方《がた》彼《かれ》は見《み》すぼらしい小屋《こや》の前《まえ》に来《き》ましたが、それは今《いま》にも倒《たお》れそうで、ただ、どっち側《がわ》に倒《たお》れようかと迷《まよ》っているためにばかりまだ倒《たお》れずに立《た》っている様《よう》な家《いえ》でした。あらしはますますつのる一方《いっぽう》で、子家鴨《こあひる》にはもう一足《ひとあし》も行《い》けそうもなくなりました。そこで彼《かれ》は小屋《こや》の前《まえ》に坐《すわ》りましたが、見《み》ると、戸《と》の蝶番《ちょうつがい》が一《ひと》つなくなっていて、そのために戸《と》がきっちり閉《しま》っていません。下《した》の方《ほう》でちょうど子家鴨《こあひる》がやっと身《み》を滑《すべ》り込《こ》ませられるくらい透《す》いでいるので、子家鴨《こあひる》は静《しず》かにそこからしのび入り、その晩《ばん》はそこで暴風雨《あらし》を避《さ》ける事《こと》にしました。
 この小屋《こや》には、一人《ひとり》の女《
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