郷《うじさと》が伊勢松坂城を出発した。続いて徳川家康、織田信雄は東海道から、上杉景勝、前田利家は東山道から潮《うしお》の様に小田原指して押しよせた。「先陣既に黄瀬川、沼津に著《つき》ぬれば、後陣の人は、美濃、尾張にみちみちたる」とあるくらいだから、正に天下の大軍である。その上、水軍の諸将、即ち長曾我部元親、加藤|嘉明《よしあき》、九鬼嘉隆等も各々その精鋭をすぐって、遠州今切港や清水港に投錨して居るのだから、小田原城は丁度三面包囲を受ける形勢にある。
 三月|朔日《ついたち》、いよいよ秀吉の本隊も京都を出発した。随分大げさな出立をしたものとみえ、『多聞院日記』に「東国御陣立とて、万方震動なり」とある。
 作り髭を付け、唐冠《からかんむり》の甲《かぶと》を著け、金札緋威《きんざねひおどし》の鎧に朱塗の重籐《しげとう》の弓を握り、威儀堂々と馬に乗って洛中を打ち立った。それに続く近習や伽衆《とぎしゅう》、馬廻など、皆善美を尽した甲冑を着て伊達を競ったから、見物の庶民は三条河原から大津辺迄桟敷を掛けて見送ったと云う。
 こんな一種の稚気にも、如何にも秀吉らしい豪快さがあって、鎖国時代以後のいじけ
前へ 次へ
全22ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング