た将軍の行列なんかには到底見られぬ図であろう。
 その上途中に展《ひら》ける東海道の風光が、生れて始めて見るだけにひどく心を愉《たの》しませたらしい。清見寺から三保の松原を眺めて、
[#天から3字下げ]諸人《もろひと》の立帰りつゝ見るとてや、関に向へる三保の松原
 と詠んだ。其の他沢山に歌を作って居るが、其の先鋒諸隊に対する、厳重な訓令は怠らなかった。殊に家康の領内を行進するのであるから、こんな点抜け目のある男ではない。斯《か》くて二十七日には、家康や信雄に迎えられて沼津城に入って居る。
 一方北条方では、此の間どうして居たか。
 天正十八年正月二十日に、氏政、氏直父子は一門宿将を小田原に招集して、評議をやって居る。初めは三島から黄瀬川附近まで進撃し、遠征の敵軍を邀撃《ようげき》する策戦に衆議一決しようとした。此の時松田|憲秀《のりひで》独り不可なりと反対し、箱根の天嶮に恃《たの》み、小田原及関東の諸城を固めて持久戦をする事を主張した。此は元来北条氏の伝統的作戦であって、遂に軍議は籠城説に決定した。
 そこで直ちに箱根方面の防備は固められた。先ず要鎮の一である韮山《にらやま》城は、氏政
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