東海の旧領と交換だった。
 これより先の一日、秀吉は家康と石垣山から小田原城を俯瞰した。
「家康公の御手を執て、あれ見給へ、北条家の滅亡程有るべからず。気味のよき事にてこそあれ。左あれば、関八州は貴客に進《まい》らすべし」(関八州古戦録)と言って、敵城の方に向い一緒に立小便をした。
 これは有名な「関東の連小便」の由来だと云うが、どうだか。
 これで見ても、秀吉には早くから家康に関八州を与える意図は有ったらしい。
 尤も徳川方の御用歴史家なんか此の移封を以て一種の左遷と見做し、神君を敬遠したるものとして秀吉に毒づいて居る。安祥《あんしょう》以来の三河を離れることは相当につらかったであろう。
 併しそれにしたところで、後で考えてみて、駿府あたりに開府するより、広濶な江戸に清新な気を以て幕府を開いた方が、家康にとってどれ位幸福だったか知れやしないと思う。

       余譚

 しかし、この時秀吉が、北条氏を滅してしまったことは、高等政策として、どうだったかと思う。せめて氏直氏規の二人に、七八十万石をやって、関東に北条家を立てさせた方が家康を制肘《せいちゅう》する役に立ったのではあるまい
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