《はやし》をやって長陣を張り、敵を退屈させて勝つことが出来たと言った。秀吉も此の言を嘉納し、ここに小田原は戦塵の中にあって歓楽場に変ったのである。
 東西南北に小路《こうじ》を割り、広大な書院や数寄屋を建て、庭には草花などを植え、町人は小屋をかけて諸国の名物等を持って来て市をなして居る。京や田舎の遊女も小屋がけをして色めきあったと云うが、恐らく事実は此れ以上に賑ったことと思われる。
 その上秀吉は諸将に、その女房達を招き寄せることを勧め、自分でも愛妾の淀君を呼び寄せて居る。淀君が東下の途中、足柄の関で抑留した為、関守はその領地を没収された様な悲喜劇もあった。或時は数寄屋に名器を備え、家康、信雄等を招待して茶の湯会をやって居る。やがて酔が廻り、美妓が舞うにつれ一座は、一段と浮かれ、「とんとろ/\、とろゝなるかまも、とろゝなる釜も、湯がたぎる、たぎる、たぎるやたぎる」と、謡ったところ、釜の蓋もわきかえり、拍子を合せるようであったと云う。
 此の情景を描いた甫菴《ほあん》は最後に、「群疑を静め、諸勢を慰め、浮やかにし給ひし才には中々信長公も及ぶまじきか」と批評して居るが、適評である。
 一方
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