小嶺《こみね》山つゞきたり。この山の間には堀をほり、東西へ五十町、南北へ七十町、廻りは五里四方。井楼、矢倉、隙間もなく立置き、持口々々に大将家々の旗をなびかし、馬印、色々様々にあつて、風に翻り粧《よそお》ひ、芳野立田の花紅葉にやたとへん。陣屋は塗籠《ぬりこ》め、小路を割り、人数繁きこと、稲麻|竹葦《ちくい》の如し」
 と『北条五代記』にある。如何にも五代の積威を擁して八州の精鋭を集めただけあって、上方勢が攻めあぐんだのも無理はない。
 九日には長曾我部元親、加藤嘉明等の水軍は大砲を発射して威嚇に努めて居るが、城内は泰然としてビクともして居ないのである。
 そろそろ此の辺から、戦いは持久戦になって来た。秀吉も攻めあぐんだ。小田原評定なんて云う言葉の起った所以である。一寸緊張が緩《ゆる》むと、面白いもので、家康、信雄が北条方へ内通して居ると云う謡言が、陣中にたった。尤も火のない所に煙は立たないもので、小牧山合戦以来未だ釈然たらざる織田信雄なんかが策動して、家康を焚き付けたことは想像出来るのである。だから先に秀吉が駿府城に迎えられた時、率直な秀吉は馬から下るやずかずかと進み、信雄、家康逆心あ
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