此処に移転して、「啼《なき》たつよ北条山の郭公《ほととぎす》」と口吟《くちずさ》んで、涼しい顔をして居た。
 此れが有名な石垣山の一夜城であって、湯本行のバスの中なんかで、女車掌が必ず声を張り上げて一くさりやる物語りである。
 此の語の真偽はとにかく、戦略上の要点を見付けるのに天才的な秀吉と、錚々《そうそう》たる土木家である増田長盛や、長束《ながつか》正家なんかが共同でやった仕事だから、姑息な小田原城の将士の度肝を抜くことなんか、易々《いい》たるものだったと思う。
 七日、秀吉は総攻撃を命じて居る。全軍一斉に銃射を開始し、喊声《かんせい》を響《とどろ》かし、旗幟《きし》を振って進撃の気勢を示した。水軍も亦船列を整えて鉦《かね》、太鼓を鳴らして陸上に迫らんとした。城中からは応戦の声が挙ったけれど、此の日は何の勝負もなかった。
 秀吉は此の日、北西二方面の攻撃力の不足を看破し、韮山攻囲軍の過半を割いて救援させて居る。欺くして戦線の兵は次第に増大し、海陸の兵数は実に十四万八千人に上った。併し流石に天下の名城だけに、小田原城の宏大さは一寸近寄り難い。
「此城堅固に構へて、広大なること西は富士と
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