その気持をセエラはいつかアアミンガアドにないしょで話したことがありました。
「そんな時には、誰かに打《ぶ》たれたような気がするの。すると、私も打ちかえしてやりたくなるの。だから、そんな時には、つい失礼なことなど口走るといけないから、大急ぎでいろいろの事を思い出さなければならないのよ。」
 ロッティははじめ教室の床の上を辷《すべ》り廻っていたのでしたが、とうとう転んで丸い膝をすりむいたのでした。
「たった今お黙り、泣虫坊主! 早く黙らないか!」と、ラヴィニアがいいました。
「わたい、泣虫じゃない、泣虫じゃアない。セエラちゃアん、セエラちゃアん。」と、ロッティは金切声で喚きました。
 ジェッシイは、ミンチン先生に聞えると大変だといって、ロッティに、
「五銭玉をあげるから、お黙んなさいね。」といいました。
「五銭玉なんか、欲しかアない!」
 そこへ、セエラが本を棄てて飛び出てきたのでした。
「ほうら、ロッティちゃん。セエラに約束したのを忘れたの?」
「あの人が、わたいを泣虫っていったんだい。」
「でも泣けば、泣虫になるわ。いい子のロッティちゃん、あなたは泣かないってお約束したんじゃアないの。」
 ロッティはその約束は思い出しましたが、それでも泣声をあげるばかりでした。
「わたい、お母ちゃんがないイ。わたい、お母ちゃん、これんばかしも、ないイ!」
「いいえ、ありますとも。」と、セエラはにこにこしながらいいました。「もう忘れたの? セエラがあなたのママだってことを忘れたの? お母ちゃんのセエラは、もう要らないの?」
 ロッティはやっと少し笑顔になって、セエラに縋りつきました。
「さ、一緒に窓の所に坐りましょう。そして、小さい声であなただけにお話してあげましょう。」
「ほんとにしてくれる? あの、ダイヤモンドのお山のお話、してくれる?」
 それを聞くと、ラヴィニアは、
「ダイヤモンドの山ですとさ。」と口を出しました。「私、あの意地悪の駄々っ子を、打ってやりたいわ。」
 セエラはいきなり立ち上りました。セエラとても天使《エンゼル》ではない以上、ラヴィニアまで愛すわけにはいきませんでした。
「あなたをこそ打ってあげたいわ。だけど、私あなたを打つのなんかいやだわ。打ってやりたいけど、打つのはよすわ。あなただって、私だって、もう物が解ってもいい年頃なんですものね。」
 ラヴィニアは、えたりとそこへつけこみました。
「さようでございますよ、殿下。私共は宮様《プリンセス》なんでございますものね。少くとも二人のうちの一人はそうなんでございますものね。ミンチン先生は、宮様《プリンセス》を生徒にお持ちだから、私達の学校も今は有名なものですね。」
 宮様のつもり[#「つもり」に傍点]になる事は、セエラにとって、たくさんのつもり[#「つもり」に傍点]の中で、一番大切なものでした。大切なだけ、人に知られたくないつもり[#「つもり」に傍点]でした。それを、ラヴィニアは今、ほとんど学校中の生徒の前で、嘲ったのでした。セエラは顔がほてり、耳が鳴るのを覚えました。彼女は今にもラヴィニアを打ちそうでしたが、セエラはやっとのことで怒を耐《こら》えました。かりにも宮様《プリンセス》と呼ばれるものが、怒りに駆られたりしてはならないと彼女は思いました。セエラは手を垂れて、しばらくじっと立っていました。口を開いた時、セエラの声はもう落付いて、しっかりしていました。「仰しゃる通り私は、時々|宮様《プリンセス》になったつもりでいるのよ。宮様《プリンセス》のつもりになれば、自然|宮様《プリンセス》のように立派な振舞が出来るかもしれないでしょう。」
 今までにもよくそんな事がありましたが、ラヴィニアはセエラに何と答えていいかわかりませんでした。というのは、周囲《まわり》の人達が、何かセエラの方に味方しているようだったからです。少女達は、実をいうと、皆|宮様《プリンセス》が好きだったのです。で、今話に出た宮様《プリンセス》というのは、どんな宮様《プリンセス》なのかそれをもっと詳しく知ろうとして、セエラのそばへ寄り集って来ました。
 ラヴィニアはやっと一言、いうべきことを考え出しました。が、それも奇抜なものではありませんでした。
「あああ、じゃア、あなたが玉座に上る時には、私達のこともお忘れにならないでね。」
「忘れるものですか。」
 セエラはそれだけいうと、ラヴィニアがジェッシイと腕を組んで出て行くのを、黙って見ていました。
 それ以来、セエラを嫉《そね》んでいる少女達は、何か辱しめてやりたい時に限って、セエラを『宮様《プリンセス》』といいました。またセエラの好きな少女達は、セエラへの愛のしるしに、セエラを『宮様《プリンセス》』と呼ぶようになりました。それを聞いたミンチン女史は、生徒の父兄が見えた時、幾度も『宮様《プリンセス》』の話をしました。『宮様《プリンセス》、宮様《プリンセス》』というと、この塾が何か貴族の学校のように、お上品に見えるだろうと思ったからでした。
 ベッキイは、セエラを『プリンセス』と呼ぶほどふさわしいものはないと思いました。彼女はいつかの薄霧の日以来、ミンチン女史や、アメリア嬢に隠れて、セエラと親しくなるばかりでした。セエラからお菓子をもらって、屋根裏の自分の部屋に帰る時、ベッキイはいいました。
「このお菓子、気を付けて食べないと大変なのよ、お嬢様。うっかりパン屑なんかと一緒に置いとくと、鼠《ねずみ》が出てきて、食べてしまうのよ。」
「鼠が?」セエラは怖くなりました。「あそこに、鼠がいるの?」
「どっさりいますよ、お嬢様。」ベッキイは平気でした。「大鼠や、廿日鼠《はつかねずみ》がたくさんいるわ。ちょろちょろ出て来て、うるさいけど、慣れれば喧《やかま》しいとも思わないわ。ただ枕の上を飛び越えたりされると、いやですけど。」
「あら。」
「何だって少し慣れれば平気になるのよ。小使娘《こづかいむすめ》に生れると、いろんな事に慣れなけりゃアなりませんよ。油虫なんかよりは、鼠の方がよっぽどましだわ。」
「私もそう思うわ。鼠となら、時がたてばお友達になれるかもしれないけど、油虫となんて、とても仲よくなれないと思うわ。」
 時とすると、ベッキイはセエラの部屋に五分といられないことがありました。そんな時には、セエラはちょっと話して、それからベッキイのポケットに何かを入れてやるのが常でした。セエラはよくベッキイに与えるために、量《かさ》のない何か変った食物を探し歩きました。初めて肉饅頭《ミート・パイ》を買って帰った時には、セエラはいいものを見付けてきたと思いました。ベッキイはそれを見ると眼を輝かせて、
「まアお嬢様、これはおいしくて、お腹がふくれて、ほんとに結構ですわ。カステラなんか、それはおいしいけど、じきお腹がすいてしまって――お嬢様なんかには、おわかりにならないかもしれませんけど。」
 そのほかベッキイの気に入ったのは、牛肉のサンドウィッチ、巻パン、ボロニア腸詰《ソーセージ》などでした。で今はベッキイも、お腹がすいたり、疲れはてたりするようなことはなくなりました。石炭函もそんなに重いとは思わなくなりました。料理人などにいくらいじめられても、午後にセエラの部屋へ行けると思うと、辛くはありませんでした。セエラの顔さえ見ることが出来れば、おいしいものなどもらわないでもいいくらいでした。
 セエラが十一歳のお誕生日を迎える二三週間前、印度の父から一通の手紙が届きました。手紙を見ると、父がいつものような子供らしい元気に充ちて書いたのではないということが、セエラにはわかりました。父は身体があまりよくないらしいのでした。ダイヤモンド鉱山の仕事が忙《せわ》しすぎるのに違いありませんでした。手紙には、こう書いてありました。
「セエラよ、お父さんは、知っての通り事務家ではない。数字や、書類はひどく私を苦しめる。熱があるせいだろう、夜中まで寝られないで、よろよろ歩き廻っている。やっと寝ついたかと思うと、いやな夢ばかりだ。私の小さい奥さんがそばにいてくれたら、きっと何かよい忠告をしてくれるにちがいないと思う。きっと何かいってくれるだろうねエ。」
 セエラはませた様子をしていたので、父はよく戯談《じょうだん》に『小さな奥様』と呼んでいたのでした。
 父はセエラの誕生日のため、パリイに新しい人形をあつらえたのでした。その人形の衣裳といったら大したものでした。父はセエラに、人形の贈物は好ましいかどうかと訊ねて来ました。それに出したセエラの返事は、なかなかふるったものでした。
「私は、だんだん年をとってきたので、またお人形を戴くまで生きていられないだろうと思います。だから、今度戴くお人形は、最後のお人形となるでしょう。そう思うと、何だかいろいろ考えさせられます。出来るなら『最後の人形』という題の詩でも作りたいのですが、でも、私には詩は書けません。幾度も書いてみたのですが、吹き出すようなものばかりしか出来ませんでした。詠んでみても、ワッツや、コルリッジや、シェイクスピアのように美しくは聞えないのです。どんなお人形も、エミリイの代りにはなりません。が、今度下さる『最後のお人形』は十分大事にするつもりです。皆さんがきっと大騒ぎなさるでしょう。人形のきらいな子なんてありませんもの。もっとも十五くらいの方達は、もう大きくなったから、お人形となんか遊ばないというような顔をしておいでですが、その方達だって、好きでないわけはないのです。」
 印度のバンガロウにこの手紙の着いた時、クルウ大尉はちょうど割れそうな頭痛に苦しめられていたのでしたが、手紙をよむと、幾十日目かで思わず笑い出しました。
「あの子は一年ごとに面白くなってくる。神様、どうかこの仕事がひとりでに片付いて、私が自由にあの子の所へ飛んで行けるようにして下さい。たった今、あの子の腕が私の首にまきついてくるとしたら、そのためには何でもあげる。どんなものでもあげる。」
 セエラのお誕生日は、大げさに祝われることになりました。贈物の函は、飾った教室で、皆の目の前で開けられ、その後で、ミンチン先生のお部屋で御馳走《ごちそう》があるはずでした。その日が来ると学校の中は妙にそわそわとしておりました。朝の中《うち》は皆夢中になって飾りつけをしました。
 その朝、セエラが居間に入って行くと、テエブルの上に、褐色の紙に包んだ、小さなふくれ上ったものが置いてありました。誰から贈られたのだか、セエラにはたいていわかっていました。そっとといてみると、中は針さしでした。あまり美しくもない赤フランネルに、黒いピンが『お目出度《めでと》う』という字の形に並んでささっていました。
「一生懸命こしらえてくれたのだわ。あんまりうれしくて、何だか悲しいような気がするわ。」
 が、針さしの下に着けてある名刺を読んだ時には、セエラは何だか狐につままれたような気がしました。名刺にはきれいな文字で、『ミス・アメリア・ミンチン』と書いてありました。
「アメリアさんですって? そんなはずはないわ。」
 セエラが名刺を見ながら、そういっているところへ、扉《ドア》をそっと押して、ベッキイが顔を出しました。
「それ、お気に入って? お嬢様。」
「気に入らないはずがあるものですか。ベッキイさん、あなた何から何まで自分で作って下すったのね。」
 ベッキイは神経的《ヒステリック》に、しかしうれしそうに、鼻先で笑いました。眼はうれしさのあまり潤んでいました。
「フランネルの古切なんですけどね、お嬢様に何かさし上げたいと思って、幾晩も幾晩もかかってこさえたんですの。お嬢様はきっとそれを、繻子《しゅす》の地へダイヤモンドのピンがささったつもり[#「つもり」に傍点]になって下さると思ったから。わたしだって、そのつもりでこさえていたのよ。それから、その名刺はねえ、お嬢様。それ、私|塵箱《ごみばこ》から拾って来たんだけど、いけなかったかしら? アメリアさんが棄てた名刺なの。わたし、名刺なんて持ってないし、名刺がなくちゃアほんと
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