てあの眠っている小娘を見付けたのでした。
「まア。」セエラは思わず小さい声でいいました。「可哀そうに!」
 セエラは、大事な椅子に薄汚い子が掛けているのを見ても、腹を立てるどころか、かえってベッキイに逢えてよかったと思いました。ここに眠っているのは、セエラの作ったお話の主人公で、彼女が眼を覚しさえすれば、セエラはその主人公のお話をすることも出来るのです。セエラは、そっとベッキイの方に歩みよりました。ベッキイは微かにいびきをかいていました。
「自然に眼を覚してくれればいいが。」とセエラは思いました。「そっと眠らしといてあげたいけど、ミンチン先生に見つかりでもすると、きっと叱られるから、可哀そうだわ。もうちっとの間、そっとしといてあげましょう。」
 セエラはテエブルの端に腰かけて、細い脚をぶらぶらさせながら、どうするのが一番いいかと、思いまどいました。今にもアメリア嬢が入って来ないとも限りません。そうすれば、ベッキイはきっと叱られるに違いありません。
「でも、とても疲れているのね。」
 セエラがそう思ったとたん、一塊《ひとかたまり》の石炭が燃え砕け、炉枠にぶっつかって、音を立てました。ベッキイは怯えて飛び上り、息をはずませながら、大きな眼をあけました。ベッキイはいつの間にか寝てしまったのだとは思いませんでした。ちょいと坐って、身体を暖めていただけなのに――と、ここでベッキイは、自分が眼をお皿のようにして、薔薇色の妖精《ようせい》みたいなあの評判なお嬢さんと向き合っているのに、気がつきました。
 ベッキイは躍り上って、落ちかけた帽子を掴みました。私はとうとう罰を受けるようなことをしでかしてしまった。しゃあしゃあとこの小さい貴婦人の椅子の中で眠ったりして、きっと私はお給金ももらえずに、逐《お》い出されてしまうのだろう。
 ベッキイは息もつまるばかりに、欷歔《すすりなき》をはじめました。
「お嬢様、お嬢様! か、かんにんして下さいまし、どうか、かんにんして下さいまし。」
 セエラは椅子から飛び降りて、ベッキイのそばへ行きました。
「何にも怖いことはないのよ。」セエラは自分と同じ身分の娘にでもいうようにいいました。「ここでは、眠ったってちっともかまわないのよ。」
「私は、眠るつもりなんかちっともなかったのでございますよ、お嬢様。ただこの火があんまりほかほかといい気持なので――それに私、疲れていたものですから、決して厚かましく寝こんだわけではないのでございますから。」
 セエラはふと親しげに笑って、ベッキイの肩に手をかけました。
「あなた疲れていたのね。眠るのも無理はありませんわ。まだ眼が覚めきらないんでしょう。」
 ベッキイはたまげたようにセエラを見返しました。ベッキイは今までこんなやさしい情の籠った声を聞いたことはありませんでした。用をいいつけられたり、叱られたり、耳を打たれたりばかりしているベッキイでした。それなのに、この薔薇色の舞蹈服を着たお嬢さんは、同じ身分の娘ででもあるかのように、ベッキイを見ているのです。そして、ベッキイは疲れるのがあたりまえだ――居眠りするのさえあたりまえだ、というような眼でベッキイを見ているのです。セエラはその細い柔かな手先を、ベッキイの肩にのせています。そんなことをされる気持もベッキイは、まだ味《あじわ》ったことがありませんでした。
「あの、あの、お嬢様。怒ってらっしゃるのじゃアございませんの? 先生達にいいつけたりなさりゃアしません?」
「いいえ、そんなことするものですか。」
 汚れた小娘の顔が、おどおどしているのを見ると、セエラは見ていられないほど気の毒になりました。
「だって、あなたも私も、同じ小娘じゃアありませんか。私があなたのように不幸でなく、あなたが私のように幸せでないのは、いわば偶然《アクシデント》よ。」
 ベッキイには、セエラのそういう意味がちっとも解りませんでした。ベッキイが『アクシデント』だと思っているのは、人が車に轢《ひ》かれたり、梯子《はしご》から落ちたり、あのいやな病院へ伴れて行かれたりする、そうした災難のことだったのでした。ベッキイの解らないのを察しると、セエラは話題を変えました。
「もう御用すんだの? もうしばらくここにいても大丈夫?」
「ここにですって? お嬢様、あの私が?」
「そこらには誰もいないようよ。だから、ほかの寝室を片付けてしまったのなら、ちょっとぐらいここにいてもいいでしょう? お菓子でも一つ上らない?」
 それから十分ほどの間、ベッキイはまるで熱に浮かされたようでした。セエラは戸棚から厚く切ったお菓子を一切《ひときれ》出して、ベッキイにやりました。セエラは、ベッキイがそれをがつがつ食べるのを、うれしそうに見ていました。セエラが心おきなく話しかけるので、ベッキイも、いつか怖れを忘れ、思いきってこんなことまで問うようになりました。
「あの、そのお召ね? ――それ、お嬢様の一番いいお着物?」
「まだこんな舞蹈服《ぶとうふく》はいくらもあるけど、私はこれが好きなのよ。あなたも好き?」
 ベッキイは感嘆のあまり、しばらく言葉も出ないような風でしたが、やがてびくびくした声でいいました。
「私いつか、宮様《プリンセス》を見たことがあるの。公園の外の人混に混って見ていると、いい着物を着た人達が行く中に、一人桃色づくめの衣裳《なり》をした、もう大人になった女の方があったの。それが宮様《みやさま》だったのよ。今しがた、あなたがテエブルに腰かけていらっしゃるのを見た時、私はその女の人を思い出したのよ。お嬢様はちょうど、その宮様《プリンセス》そっくりなのだもの。」
 セエラは一人ごとのようにいいました。
「私、時々こんなことを考えたことがあるわ。私も宮様《プリンセス》になりたいなアって。宮様《プリンセス》になったら、どんな気持でしょう。きっともうじき、宮様《プリンセス》になったつもり[#「つもり」に傍点]を始めるのでしょう。」
 ベッキイは眼をお皿のようにして、セエラに見とれていました。が、相変らず、セエラが何をいっているのだか判りませんでした。セエラは、じき我にかえって、ベッキイに問いかけました。
「ベッキイ、あなたこの間、私のお話を聞いていたんでしょう。」
「聞いてました。」ベッキイはちょっとまたどぎまぎしました。「私、聞いたりしちゃアいけないと思ったんだけど、でも、あのお話、あんまり面白くって、私――聞くまいと思っても、聞かずにいられなかったの。」
「私も、あなたに聞いてもらいたかったのよ。誰だって聞きたい人に話してあげたいものでしょう? あの話のつづき聞きたくない?」
「私にも聞かして下さるって? あのお嬢様がたのように? 王子様のことや、白い人魚の子のことや、お星様の飾りをつけた髪のことや、みんな聞かして下さるのですって?」
「でも、今日はもう時間がないから駄目じゃアない? これからお掃除に来る時間を教えて下されば、私その時お部屋にいて、少しずつお話してあげるわ。かなり長くて、綺麗なお話よ。それに私、繰り返して話すたびに、何かしら新しいことを入れるのよ。」
 セエラの部屋を出たベッキイは、今までの可哀そうなベッキイではなくなりました。彼女のポケットには、余分にもらったお菓子がありました。いかにも満腹そうです。そして暖かそうでした。彼女のお腹を充《みた》し、身体を暖めてくれたのは、お菓子や火ばかりではありません。お菓子でも火でもなく、ベッキイを養い暖めてくれたものは、もちろんセエラでした。
 ベッキイが出て行ったあと、セエラは、テエブルの端に腰を下し、椅子の上に脚をのせ、脚に肱をついて、それに顎をのせました。
「もし、私がほんとうの宮様《プリンセス》だったら、私は人民に贈物《おくりもの》を撒《ま》きちらすことが出来るんだけどな。宮様《プリンセス》のつもりになっただけでも、皆さんのためにしてあげられることは、いろいろあるわ。たとえば、ベッキイをいい気持にしてやるということは、贈物をするようなものだわ。私は、これから人をよろこばすことは、贈物をするのと同じだというつもり[#「つもり」に傍点]になろう。そうすると、私は今、ベッキイに一つの贈物をしたばかりだということになるのね。」

      六 ダイヤモンド鉱山

 セエラがベッキイと近づきになってからしばらくの後、心を躍《おど》らすようなことが起りました。セエラ自身胸を躍らしたばかりでなく、学校中の生徒も胸を躍らして、それから何週間もの間、寄ると触ると、その話ばかりしていたというほどの事でした。それは、クルウ大尉からセエラへ来た手紙の中に書いてあったのでした。ある日、クルウ大尉の同窓生の一人が、印度に訪ねてきて、現在採掘中のダイヤモンド鉱山が、順調に行けば非常な利益を挙げることになるので、クルウ大尉もこの事業の仲間入りをしてはどうかと、勧めたのだそうでした。何かほかの事業でしたら、セエラ初め学校の中の少女達は、どんなにお金が儲かるにしても、あまり気にとめずにすんだでしょうが、ダイヤモンドの鉱山だというので、『アラビアン・ナイト』を聞いた時のように、耳を聳《そばだ》てたのでした。
 セエラはそのことで夢中になりました。で、アアミンガアドやロッティに説明するため、地の底の迷園のような道を描いて見せたりしました。その穴道の中では、黒ん坊が、そこら中に光っている宝石を掘り出しているのでした。
 ラヴィニアは、その話をせせら笑って、ジェッシイにいいました。
「私のお母さんは、四百円もするダイヤモンドを持ってるのよ。でも、それだってそんな大きい石じゃアないのよ。それなのに、ダイヤモンドの山なんか持ってる人があるとすれば、お金がありすぎて莫迦げて見えるわ。」
「セエラさんは、莫迦げたほどのお金持になるのかもしれないわね。」
「あの子は、お金があったって、なくたって、莫迦げた子じゃアないの。」
「あなた、セエラが嫌いらしいのね。」
「嫌いじゃアないわ。でも、ダイヤモンドの鉱山があるなんて、私信じられないわ。」
「山がないとすると、ダイヤモンドはどこから採《と》ってくるのでしょうね。」ジェッシイはくすくす笑いながらいいました。「あなた、ガアトルウドが、何といったとお思いになる?」
「知らないわ。セエラのことなら、もう聞かないでもいいことよ。」
「ところが、やっぱりセエラのことなのよ。あの人、この頃|宮様《プリンセス》のつもり[#「つもり」に傍点]ってのも始めたんですって。アアミンガアドにも、プリンセスのつもりになれっていうんだそうよ。でも、アアミンガアドは、宮様《プリンセス》にしては肥《ふと》りすぎているから駄目だっていってるのよ。」
「あの子は、ほんとに肥っちょね。そして、セエラは痩《や》せっぽちときているわ。」
 ジェッシイは吹き出しました。
「セエラは、そのつもりになるためには、顔とか持物とかは、どんなでもかまわないっていうのよ。何を考え、何をするかということが、かんじんなんですって。」
「きっとあの人は、自分が乞食《こじき》であっても、宮様《プリンセス》になれると思ってるんでしょうよ。これから、セエラを『殿下』と呼んでやりましょうか。」
 煖炉《ストーブ》の前で、ラヴィニアがまだしゃべっている所へ、戸が開いて、セエラがロッティと一緒に入って来ました。ロッティはまるで小犬のように、セエラの行く所へはどこにでもついて行くのでした。
「ほら、セエラが来た。またあのいやな子を伴れて。」ラヴィニアは小声でいいました。「そんなに可愛いなら、自分の部屋の中に飼っとけばいいじゃないの。いまにまたきっと吠え出すことよ。」
 ロッティは果して、何程もたたないうちに吠え出しました。セエラはその時、窓のそばでフランス革命の本を、夢中になって読んでいたのでした。で、ロッティの喚き声を聞いて、夢から覚まされた時には、さすがにいやな気持がしました。本の好きな人は、誰でもそうでしょうが、セエラは読書の邪魔をされると、妙に腹が立ってならない性質でした。
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