小公女
A LITTLE PRINCESS
フランセス・ホッヂソン・バァネット Frances Hodgeson Burnett
菊池寛訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)ふいに無一物の孤児《みなしご》になることを

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)それはいけませんね、|お嬢さん《マドモアゼール》。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「旬+力」、38−4]《いたわ》って
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     はしがき(父兄へ)

 この『小公女』という物語は、『小公子』を書いた米国のバァネット女史が、その『小公子』の姉妹篇として書いたもので、少年少女読物としては、世界有数のものであります。
『小公子』は、貧乏な少年が、一躍イギリスの貴族の子になるのにひきかえて、この『小公女』は、金持の少女が、ふいに無一物の孤児《みなしご》になることを書いています。しかし、強い正しい心を持っている少年少女は、どんな境遇にいても、敢然《かんぜん》としてその正しさを枉《ま》げない、ということを、バァネット女史は両面から書いて見せたに過ぎないのです。
『小公子』を読んで、何物かを感得された皆さんは、この『小公女』を読んで、また別な何物かを得られる事と信じます。

   昭和二年十二月[#地から1字上げ]菊池 寛
[#改丁]

      一 印度《いんど》からロンドンへ

 ある陰気な冬の日のことでした。ロンドンの市中は、非常な霧のために、街筋《まちすじ》には街燈が点り、商店の飾窓《かざりまど》は瓦斯《ガス》の光に輝いて、まるで夜が来たかと思われるようでした。その中を、風変りなどこか変った様子の少女が、父親と一緒に辻馬車に乗って、さして急ぐともなく、揺られて行きました。父の腕に抱かれた少女は、脚を縮めて坐り、窓越しに往来の人々を眺めていました。
 セエラ・クルウはまだやっと七歳なのに、十二にしてもませすぎた眼付をしていました。彼女は年中大人の世界のことを空想してばかりいましたので、自然顔付もませてきたのでしょう。彼女自身も、もう永い永い生涯を生きて来たような気持でいました。
 セエラは今、父のクルウ大尉と一緒に、ボムベイからロンドンに着いたばかりのところなのです。あの暑い印度のこと、大きな船のこと、甲板《かんぱん》のこと、船の上で知り合いになった小母《おば》さん達のことなど思い起しますと、今この霧の町を妙な馬車で通っていることさえ、不思議に思われてなりませんでした。セエラは父の方にぴたりと身を寄せて、
「お父様。」と囀《ささや》きました。
「何だえ、嬢や?」クルウ大尉はセエラをひしと抱きしめて、娘の顔を覗きこみました。「何を考えているの?」
「ねえ、これがあそこ[#「あそこ」に傍点]なの?」
「うむ、そうだよ。とうとう来たのだよ。」
 セエラはほんの七歳でしたが、そういった時の父が、悲しい思い出に打たれていることを悟りました。
 父がセエラの口癖の「あそこ」のことを話し出したのは、ずっと前のことでした。母はセエラの生れた時亡くなってしまいましたので、セエラは母のことは何も知らず、したがって恋しいとも思いませんでした。若くて、風采《ふうさい》の立派な、情愛の深い父こそは、セエラにとってたった一人の肉親でした。父子《ふたり》はいつも一緒に遊び、お互にまたなきものと思っていました。セエラは皆が彼女に聞えないつもりで話しているのを耳にして、父は裕福なのだと知りました。それで、彼女も大きくなれば裕福になるのだと知りました。裕福とはどんなことか、それはセエラには解りませんでした。が、セエラは美しい平屋建《バンガロー》に住んでいましたし、召使はたくさんいましたし、何でもセエラの自由にならないものはありませんので、こんなのが裕福というのかなと彼女は思っていました。
 七歳《ななつ》になるまでの間にセエラの気がかりになっていたことは、いつか伴《つ》れて行かれる「あそこ」のことだけでありました。印度の気候は子供達の体によくなかったので、印度で生れた子供達は出来るだけ早く英国へ送られ、英国の学校に入れられるのでした。セエラはよその子供達が英国へ帰って行くのを見たり、親達が子供から受けとった手紙の話をしているのを、聞いたりしました。で、セエラもいつかは印度を去ることになるのだろうと思っていました。父が時々してくれる航海の話、新しいお国の話には惹きつけられないでもありませんでした。が、あそこ[#「あそこ」に傍点]に行けば、父と一緒にいることが出来ないのだと思うと、セエラの胸は痛むのでした。
「パパさんは、あそこ[#「あそこ」に傍点]へ一緒に行って下さらないの?」そう尋ねたのは五歳《いつつ》の時でした。
「一緒に学校へいらっしゃらない? 私、お父さんのおさらいしてあげてよ。」
「でもセエラや、別れているのはそんなに永いことじゃァないのだよ。それにお前は、小さいお嬢さんのたくさんいる素敵なお家《うち》へ行くのだよ。そして、みんなと遊ぶのだよ。お父さんはたくさん御本を送って上げる、お前はどしどし大きくなって、一年も経つかたたないうちにすっかり大人になって、利口になって帰ってくる。そうして、お[#「、お」は底本では「お、」]父さんの世話をしてくれる――。」
 その時のことを考えると、セエラはうれしくなりました。父のために家の中を片付けたり、父と一緒に馬に乗ったり、父が宴会を催す時には食卓の上座《しょうざ》に坐ったり、父の話相手になったり、父に本を読んであげたり、――そんなことを覚えるためだったら、よろこんで英国へ行こう、とセエラは思いました。セエラは学校でお友達がたくさん出来ることなどは、うれしいとも思いませんでしたが、御本をたくさん送ってもらえるのは、うれしいに違いありませんでした。セエラは本が何より好きでした。本さえあれば寂しいとも思いませんでした。それにセエラは、美しい物語を自分で作って、自分で語り聞かせるのが好きでした。時には、それを父に話して聞かせることもありました。父もセエラ同様、その物語を喜んで聞きました。
「ねえ、お父様。」セエラは馬車の中でそっといい出しました。「もうここに来たのなら、諦めなければならないわねエ。」
 父はセエラがあまりませたことをいうので、笑って、そして彼女に接吻《キス》しました。父はその実ちっとも諦めてはいなかったのでしたが、セエラにそうと知らしてはならないと思いました。妙におどけた小さいセエラは、父にとってこそ、なくてはならぬ伴侶《みちづれ》だったのです。印度の家へ帰っても、セエラがあの白い上衣《うわぎ》を着て迎えに出て来ないのだとしたら、どんなに寂しいだろう、とクルウ大尉は思わずにはいられませんでした。父は娘をしかと抱き寄せました。馬車はその時陰気な街筋へがらがらと入って行きました。そこに二人の目ざす家があったのでした。
 その街並は、皆大きな陰鬱《いんうつ》な煉瓦建《れんがだて》でした。その一つの家の、正面の扉の上に、真鍮《しんちゅう》の名札が輝いていました。そこに黒でこう彫ってありました。

     ミス・ミンチン女子模範学校[#「ミス・ミンチン女史模範学校」は太字、囲い枠付き]

「さあここだよ、セエラ。」とクルウ大尉は出来るだけ機嫌よさそうにいって、セエラを馬車から抱き下ろしました。セエラはあとになってよく思い合せたことでしたが、この家はどことなくミンチン先生にそっくりでした。かなりきちんとしていて、造作《ぞうさく》などもよく出来てはいましたが、家にあるものは何もかもぶざまでした。椅子《いす》も、絨氈《じゅうたん》の模様も、真四角で、柱時計まできびしい顔つきをしていました。
「あたし、何だかいやになったわ。」とセエラは父にいいました。「兵隊さんだって、いざとなったら、ほんとうは戦争に行くのが、いやになりはしないだろうかしら。」
 その妙ないいかたを聞くと、クルウ大尉はからからと笑い出しました。
「ほんとに、セエラ! お前のように真面目に物をいってくれるものがなくなると、わたしも困るね。」
「じゃア、なぜ真面目なことをお笑いになるの?」
「だって、お前が真顔でいうと、それがまた莫迦《ばか》に面白く聞えるからさ。」
 そこへ、ミンチン先生が入ってきました。ミス・ミンチンは魚のような冷《つめた》い大きな眼をして、魚のような微笑みかたをしました。先生はこの学校をクルウ大尉に推薦したメレディス夫人の口から、クルウ大尉が金持で、わけてもセエラのためなら何万金も惜しまないということを聞いていました。先生にとっては願ってもない話だったのです。
「こんなお綺麗《きれい》なお子さんをおひきうけ申しますのは、ほんとうに嬉しゅうございます。メレディス夫人のお話では、大変御利発なそうで――」
 セエラはミス・ミンチンの顔を見つめたまま、静かに立っていました。
「私はやせっぽちで、毛は黒くて短いし、眼は緑色だし、ちっとも綺麗なんかじゃないのに、あの方は嘘《うそ》ばっかしいっている。」とセエラは思いました。後々セエラは、ミンチン先生がどの子供の親にでも[#「親にでも」は底本では「で親にも」]同じようなお世辞をいうのを知りました。そうはいっても、セエラは自分が思っているほど醜い子では決してありませんでした。ほっそりして、しとやかな身体つきで、人好きのする顔立をしていました。黒い髪も、緑色の眼も、見る眼には見事に映るくらいだったのです。
 セエラは寄宿生は寄宿生でも、普通の生徒と違って、特別に美しい寝室と居間とをあてがわれることになりました。それから、子馬を一頭と、馬車を一台と、乳母代りの女中一人とがあてがわれるはずでした。
「この子の教育については、少しも心配はありませんが。」と、父はセエラの手を撫でながら、愉快そうに笑っていいました。「ただ、あまり勉強をさせすぎないようにして頂きたいと思います。今まででさえ、この子は鼻の先を本の中に埋《うず》めるようにして坐っているのですからねエ。読むんじゃアないのですよ、ミス・ミンチン。狼の子みたいに、本を貪り食っちまうんですからね。それに、大人の本を欲しがっているんですから。歴史であれ、伝記であれ、詩であれ――それに、フランスやドイツのものまで。ですから、なるべく本から引離して、小馬に乗せたり、町へ人形を買いに伴れてってやったりして下さい。」
「でもお父様、町へ出るたびにお人形を買ってたら、とても仲よしになりきれないほどの数になってしまうでしょう。エミリイちゃんは、私の親友になるはずですけど。」
「エミリイさんて、どなた?」とミス・ミンチンが訊《たず》ねました。
「お話しておあげ、セエラ。」
 父にいわれると、セエラは大変気高く、物優しい眼になって、話し出しました。
「エミリイちゃんは、まだ買ってないけど、お父様が私に買って下さるはずのお人形ですの。お父様がいらっしゃらなくなったら、私エミリイちゃんとお父様のことをいろいろお噂するつもり。」
「まア、何て御利発な――」
「ええ。」と父はセエラをひきよせて、「この子はまったく可愛い子です。どうか私に代って、よく面倒をみてやって下さい。」とミス・ミンチンにいいました。
 それから五六日、セエラは父とホテルに滞在しました。二人は毎日町へ出ては、夥《おびただ》しい買物をしました。高価な毛皮で縁どった天鵞絨《びろうど》の服や、レエスの着物や、刺繍のある衣服や、駝鳥《だちょう》の羽根で飾った帽子――貂《てん》の皮の外套《がいとう》、それから小さな手袋、手巾《ハンケチ》、絹の靴下――帳場の後方《うしろ》に坐っていた婦人達は、あまり贅沢な買物をするので、セエラはどこかの姫宮《プリンセス》じゃアないかと囁《ささや》き合ったくらいでした。
「私は、あの子を生きているように見せたいの。でも、お人形ってものは、何だかいくらお話しても聞いてない
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