将分多く討死した。之に比べると、案内を知った浅井方の討死は少かった。
こう書いてくると徳川勢は余り苦心をしていないようだ。併し朝倉勢に、裏切り組というのがあり、百人位の壮士を選び、各人四尺五寸、柄《え》長く造らせたる野太刀を持ち、戦いの最中、森陰から現われて、不意に、家康の旗本へ切りかかった。為に旗本大いに崩れ立ち、清水久三郎等家康の馬前に立ち塞がり、五六人斬り伏せたので、漸く事無きを得た。
之れは後年の話だが、徳川|頼宣《よりのぶ》がある時の話に「加藤喜介正次は、常に刀脇ざしの柄に手をかけ居り候に付き、人々笑ったところ、加藤喜介曰く『姉川合戦の時、朝倉が兵二騎味方の真似して、家康公の傍《そば》へ近付き抜きうちに斬らんとした。喜介常に刀に手をかけ居る故、直ちに二騎の一人を斬りとめ他の一人は天野三郎兵衛討止めた。此の時家康公も太刀一尺程抜き、その太刀へ血かかる程の事なり。だから平生でも刀の柄に手をかけているのだ』と云ったと云うが、喜介よりも其の朝倉の兵はもっと勇敢だ。敵の中に只二人だけ乗り込み討死す。而も二人の首の中に『一足|無間《むげん》』と云う、誓文を含んでいたと云う。さてさて思
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