熱を上げて居ると、正成は「それは菊池(武時)だろう」と言った。滅多に人をほめたことのない新田義貞も、此の一言には非常に感動したと云う(『惟澄文書』)。その謙抑知るべしだ。
 戦後の論功行賞にしてもそうだが、尊氏や義貞に比して、正成は寧ろ軽賞である。それでも黙々として忠勤を励む其の誠実さは、勘定高い当時の武士気質の中にあって、燦然《さんぜん》として光っている。
 最近公刊されたものであるが『密宝楠公遺訓書』と云う本がある。正成が正行《まさつら》に遺言として与えたものであると云う。その中に、
「予討死する時は天下は必ず尊氏の世となるべし。然りと云へども、汝、必らず義を失ふことなかれ。夫れ諸法は因縁を離れず。君となり臣となること、全く私にあらず。生死禍福は、人情の私曲なるに随《したが》はず。天命歴然として遁《のが》るゝ処なし」とある。少し仏法臭を帯びては居るが、秋霜烈日の如き遺言である。名高い桜井の訣別の際の教訓にしてもそうだが、兎に角|斯《こ》うした一種の忠君的スパルタ教育で、小楠公は鍛えられたのだ。幼少時代の正行を記すものは、『太平記』唯一つである。湊川《みなとがわ》で戦死した父の首級を
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