説である。つまり学問的に正成は忠義の何物たるかを熟知して居たのだから迷わないのだ。最初から、功利的忠義ではないのだ。尚、宋学は当時後醍醐天皇初め南朝公家の間に盛に行われて居たから、正成は天皇と同系統の学問をして居たことになる。南柯《なんか》の夢で正成を笠置に召し出したのが奉公の最初であるとする、『太平記』の説はさて措《お》き、早くからこの君臣の間に、ある関係があったことは想像出来る。正中の変前に、日野俊基が山伏姿で湯治と称し、大和、河内に赴いたことは、『増鏡』や『太平記』に立派に記《しる》してあるが、恐らくこんな時、楠氏と朝廷とが結ばれたのかも知れない。或はもっと早く、学問上の関係から、天皇と正成は相共鳴する所があったのではあるまいか。
とにかく正成は出発点からして、他の多くの諸将と違って居る。つまり学問上の信念を純粋に実践に依って生かして居るからだ。『太平記』の記者などは、所きらわず正成を褒め倒して居るが、これなども戦記作者を通じて、当時一般の輿望《よぼう》が現われているのである。
或日、武将達が集って、建武中興で一番手柄のあった者は誰だろうと議論があった。各々我田引水の手柄話に
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