《ち》兄弟なので、その弔合戦に先陣を望んだが、高槻の城主高山右近は、「わが居城は最も京に近い。京近き合戦に、わが鴉《からす》の旗見えねば、高山いかにせしかと云われん」とて、先陣を望んで止まないので、到頭その居城の順序に依って、高槻の高山、茨木の中川、花隈《はなくま》の池田の順になった。
光秀の方は、光秀麾下の雄将斎藤|内蔵助《くらのすけ》が中央軍の先頭で明智十郎左衛門、柴田源左衛門等之につき、四千人。左備《ひだりぞなえ》は津田与三郎、志水嘉兵衛など三千五百人。右備は伊勢与三郎、藤田伝五郎等二千人である。中央軍の第二陣は、松田太郎左衛門で、その後に光秀旗本五千余騎を従えて、進んだ。
此の中で、左備の津田与三郎は、尼ヶ崎の城主で信長の甥である七郎兵衛信澄の家老だった。
この信澄は、信長の弟信行の子で、信行は信長に殺されたのだから、信澄に取って信長は伯父ではあるが父の仇《あだ》である。その上、信澄の妻は、光秀の娘である。だから、織田の一族ではあるが、本能寺の兇変を聞いて躍り上って悦《よろこ》び、光秀の為に中国から攻め上る秀吉を防ぐつもりでいたが、あまりに早まりすぎて、大阪にいた丹羽五郎
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