左衛門のために殺されてしまった。
 織田の一族である信澄が健在で光秀の方に加っていたら、名分の上からも、いくらかごまかしがつくし、殊に此の信澄は軽捷《けいしょう》無類の武術があまりうまくなり過ぎて、武術の師匠を冷遇したので、その連中が丹羽方へ内通したと云われるだけに、生きていたら山崎合戦に於ても、さぞかし目ざましい働きをしたに違いない。一国の城主で、織田の一族であるから、光秀に取っては無二の味方になったに違いないのである。信澄が倒れた後でさえ、家老の津田が軍勢を率いて加勢に来ているほどである。
『太閣記』などによると、戦場と時刻を秀吉が光秀に通知したなどあり、芝居の『太閣記』十段目の「互の勝負は云々」など、これから出ているであらうが、そんな馬鹿なことはない。
 が、光秀が山崎の隘路を扼《やく》して秀吉の大軍を阻《はば》まんとしたのは戦略上、当然の処置であり、秀吉の方も亦山崎に於ての遭遇戦を予期していたのであろう。
 山崎で戦うとすれば、大切な要地は天王山である。光秀が之を取れば、随時に秀吉の左翼から、拳下《こぶしさが》りに弓鉄砲を打ち放して切ってかかることが出来るし、秀吉が之を取れば逆
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