寄って、その膝を叩き、
「御運の開けさせ給う時節到来せり、よくせさせ給え!」
と云った。秀吉が、心の底で思っていることを、あまり露骨に云ったので秀吉は、生涯如水を信頼しながらも、一味|憚《はばか》るところがあったと云われている。
秀吉だって、信長の死はわが開運のチャンスと思ったに違いない。光秀は、私憤を利用して、無理にそう云うチャンスを作ろうとし、秀吉は、偶然そう云うチャンスが到来したので、信長の死をチャンスだと考える点では、同じであっただろう。
だから、『太閤記』の作者は、
「天下順に帰するや山崎の一戦なり。天下逆に帰するや山崎の一戦なり。順と云ふも至順にあらず、逆と云ふも至逆にあらず、順逆ともに似て非なるものなれども、これを明らかにする鑑《かがみ》なく、これを察《さと》らする識《さとし》なく、英雄一個の心智を以て、四海万姓を弄《もてあそ》ぶ事、そも/\天の意なるや」となかなかしゃれた事を云っている。
秀吉の軍勢は、二万六千余で、先陣はわが戦国時代のクリスチャン・ゼネラル高山右近であった。第二陣は中川瀬兵衛、第三陣は池田|勝入斎《しょうにゅうさい》だ。
勝入斎は、信長とは乳
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