いでしょう。若杉裁判長が、罪人に対する理解のこもった同情は、だんだん立会の検事にも伝染したとみえ、最初ほどは検事が頻々《ひんぴん》と控訴しなくなりました。
が、時々は、若杉さんに対して、課刑が寛大に失するという非難がないでもありませんでした。そうした非難をする人でも、若杉裁判長の人格の底深く植えつけられた信念の力強さを知ると、いつの間にか、そうした非難を忘れるともなく、捨ててしまうようでした。
若杉裁判長が、いかにも人情を噛み分けた、同情の溢《あふ》るるような判決を被告に下した実例は数え切れないほどあります。放蕩無頼《ほうとうぶらい》の兄が、父にたびたび無心をした揚げ句、父が応ぜぬのを憤って、棍棒を振って、打ってかかったのを居合せた弟が見るに見兼ね、棍棒をもぎとるなり、兄をただ一打ちに打ち殺した事件の裁判なども、若杉裁判長の名声を挙げた、名裁判の一つでありました。普通の裁判官なら、たとえ被告に同情をするにしても、尊親族《そんしんぞく》殺人という罪名に拘泥して、どんな酌量をしても四、五年の実刑は課したでしょう。が、若杉裁判長は、罪を憎んで五年の懲役をいい渡すと同時に、執行猶予の恩典を付けることを忘れませんでした。この被告については、村の村長を筆頭として、百五十名が連署した嘆願書が出ていたほどですから、当人をはじめ、一村|挙《こぞ》って小躍りして欣びました。
まだ、こんな事件を数えるなら、いくつもありましょう。若杉裁判長としても、刑法の涙ともいうべき執行猶予の恩典を十分に利用して、どちらかといえば、機械的《メカニカル》に失しやすい法律の運用に、一味の人情味を加えるということは、裁判官としても、愉快なことであるに違いありません。
そうしたわけで、五万以上も人口のあるこの△△△市で、若杉裁判長といえば、名裁判長として令名が嘖々《さくさく》たるものでありました。
が、若杉さんの令名が、頂上に達した頃でしょう。次にお話しするような、事件が起りました。誰でも、一度か二度かは、地方の新聞紙で見たことがあると思いますが、関西地方には、しばしば起る、あの「中学生のジゴマ」という事件です。これは活動写真の悪影響の一つだといって、世の識者たちが活動写真を非難する材料の一つとしているようですが、ちょうど△△△市にも、「中学生のジゴマ事件」が起って市民の目をそばだてしめました。しかも、その犯人が、規律の厳粛で評判のよい、県立中学の生徒で、しかも級長をしている優等生で、その上色白の美少年であったというのですから、世人を驚かしたのも無理はありません。
犯罪の手段は、やっぱり紋切型の通り、その少年は、△△△市の町端れにある、ある富豪の家に脅迫状を送って、「何月何日の夜に、鎮守の八幡の大鳥居の下へ、金二百円を新聞包みにして置くこと。もし実行しないならば、全家を爆裂弾をもって焼き払うべし」というたわいもないことを並べたてたのです。その家でもどうせ性質《たち》の悪い悪戯だろうということで、そのまま打ち捨てておきますと驚くじゃありませんか、丁度その約束の日の前夜に、その富豪の家の門前に当って、一大爆音がきこえたというのです。が、これはおそらくこの事件を伝えた新聞紙の誇張であったのでしょう。当の犯罪者の少年は、癇癪玉《かんしゃくだま》を一緒に、三つばかりぶつけたといっておりますから、そんな大した音のしなかったのは確かです。脅迫状のために、内心いくらかびくついていた富豪の一家が、この爆声を聞いて、色を変じたというのは、あながち誇張ではありますまい。捨てておいては一大事というので、早速警察へ人をやりまして、脅迫状が舞い込んでからの一部始終を訴え出でました。長い間、事件が無くて、閑散に苦しんでいた警察は、この訴えをきいて蘇《よみがえ》ったように活動を始めました。脅迫状に指定された翌晩が来ると、警察署長以下、警部一名、刑事巡査六名がことごとく変装して、鎮守の森を遠巻きにしたそうです。そして柔道初段という刑事と、撃剣が三級という腕節《うでっぷし》の強い刑事とが、選ばれてその大鳥居の陰に身を隠しました。そして、いかにも札束でも入っていそうな新聞包みを、その鳥居のちょうど真下に置きました。
その晩は非常にいい月夜で、刑事たちも一種ロマンチックな心持で、ジゴマ団の襲来を待っていました。すると、刑事たちがいい加減退屈した頃に、爪先上りになった参詣道を、マントを着た一人の男が急ぎ足に上ってきたそうです。刑事たちは、固唾《かたず》をのみました、そして、少しでも、その男に不審な挙動がありましたら、すぐ飛びかかろうという、身構えをしました。すると、その男は、鳥居の下まで来て、足を止めたかと思うと、一度あたりを見回してから、夜目にもしるきその新聞包みをそっと取り上げたではありませんか
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