若杉裁判長
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)敬虔《けいけん》な

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)判事|若杉浩三《わかすぎこうぞう》氏
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 △△△地方裁判所の、刑事部の裁判長をしている、判事|若杉浩三《わかすぎこうぞう》氏は若い時、かなり敬虔《けいけん》なクリスチャンでありました。
 が、普通クリスチャンの青年が、社会に出てしまうと、まるきり物忘れをしたように、けろりとクリスチャンでなくなるように、若杉さんも、いつの間にか、青年時代の信仰をどこかへ置き忘れていました。それは、大学時代に作ったたくさんのノートの中へ置き忘れたのか、それとも司法官試補の時にむやみに追い使われた、ある地方の区裁判所の事務所のベンチに置き忘れたのかわかりません。
 が、今では若杉さんは、決してクリスチャンではありません。誰が見ても、あの法服を着て法廷に澄まし込んでいる若杉裁判長が、青年時代に、熱烈な信仰を懐いていたことには、気がつきますまい。が、ドイツの学生が、若い時に血気に任せて盛んに決闘をやった傷痕が、官僚政府に出仕して意気地なしの老官吏に成り果てた後までも、彼らの老顔の皺の間に残っているように、若杉裁判長の青年時代の信仰も、やっぱりどこかに痕跡を残していたようです。
 それはほかでもありません。若杉裁判長は、罪人に対して非常に深い同情を持っていたことです。ことにその罪人が、犯した罪を少しでも後悔し、懺悔でもしているような様子が見えると、裁判長の判決は、立会の検事を呆気《あっけ》にとらせるほど、寛大でありました。むろんこんな時、立会の検事は必ず控訴をしました。その控訴が棄却になることもありましたが、かえって原判決が取り消されて、もっと重い判決が下ることもしばしばありました。
 もとより、裁判長としては、自分の下した判決が取り消されることは、決してその人にとっては、名誉でありません。が、それにもかかわらず、若杉裁判長の判決は、いつも寛大に失するくらいでありました。裁判長が若杉判事だと知ると、事情を知った被告は、小躍りして欣《よろこ》ぶまでになりました。
 世人を戦慄させたような極悪人の場合は別として、世人は、被告が寛大の刑に処せられることに対して、大した抗議を懐くものではありません。否、その被告人にいくらかでも同情すべき点がある時などは、世人は刑罰が軽ければ軽いほど、一種の快感を感ずるものです。まして、その被告人に少しでも縁故のある人たちが欣ぶのは、無理もありません。こうした訳合で、若杉裁判長が、いつの間にか名裁判長の名を謳われ出したのも、決して不道理ではありますまい。
 むろん、若杉裁判長が、罪ということについて、普通の裁判長とは、まったく違った考えを懐いていたことも当然なことです。この人は、どちらかといえば、決して、裁判官という柄ではなかったのです。あの薄暗い法廷で厳しい顔をしている法官としては、あまりに繊細な感情を持ち過ぎていたのです。実際当人も、最初から法科を、やろうなどという意志は、毛頭無かったのです。東京の高等学校にいた頃は、文科で、しかも哲学志望でありました。当人の考えでは、将来は教育家になるつもりでいたらしいのです。むろん教育家といっても、人間の精神に強い力を与え得るような、本物の教育家になるつもりでいたのです。が、教育家志望の若杉浩三がどうして法科に転じたかについては、二つの原因があります。一つは、非常に崇拝していた森田という同窓生が、急に文科志望を止めて、法科へ転ずる決心をしたからです。なんでも、森田という人は、一年からずうっと文科の首席を通してきた人ですが、卒業する半年前になると、その人の兄さんという人が、「将来文科では、とても飯が食えない。このさい思い切って法科へ変ったらどうか」と、いってきたそうです。実際、文科を出て困っている実例はその頃も多かったとみえ、非常に聡明な森田という人は、すぐ転科をする決心をしたそうです。自分よりは成績もよく、学資も豊富な森田君が、将来の生活問題を気にして転科をするとなると、当時の若杉裁判長も、勢い首を傾けなければなりませんでした。
 その上に、若杉さんは、こうしたできごとに会っていたことがあります。なんでも、高等学校の確か二年生であった頃ですが、若杉さんは、ある晩、春日《かすが》町から伝通院《でんつういん》の方へ富坂《とみざか》を登っていたそうです。すると、半分ばかり、坂を上って右側にあるミルク屋の前に、二、三人、人だかりがしているのです。何かと思って立ち止まると、そのミルク屋の中から、土工体の男が、立派な服装《なり》をした紳士の右の手を、縄で縛って連れ出してくるのです。一組かと思うと、そうした組合せがいくつも後から出てくるのです。
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