どの組もどの組も、縛っている方が労働者の風をして、縛られている方が紳士の服装をしているから、奇体です。今から考えれば、それは賭場へ手が入ったので、珍しくもなんともないのですが、その頃は、そうした実世間のできごとにまったく無経験であった若杉さんは、呆気にとられて見ていたとのことです。すると、若杉さんの前へ、もう一人青年が来たそうです。この男はこの場の事情を若杉さん以上に知らなかったと見え、ミルク屋の入口に近づいて、家の中を覗き込むようにしていたそうです。すると、もう縛り上げる罪人の種が尽きたとみえ、いちばん最後に手ぶらでミルク屋を出ようとした土工体の男は、入口に立ち塞がっているこの青年が邪魔になったとみえ、
「退《ど》け! 何を見ていやがるんだ」と、怒鳴りつけたばかりでなく、荒々しくその青年を突き退けました。むろんこの青年は、この男が自分の持たぬある権力を持った刑事であることを知りません。
「何をするんだい!」と、怒鳴り返しながら、勢いよくその刑事に、飛びかかりました。するとその刑事は、
「何! 反抗する! 反抗するなら、警察へ来い」と、いいながら、乱暴にも、その青年の手を、縛りにかかりました。おそらく、同僚が皆それぞれ獲物を連れて帰るのに、自分一人、手ぶらで帰るのは、この刑事にとってはちょっと不快なことであったのに相違ありません。なんでもいいから、ともかくも、一人縛って帰ろうという、悪い了見らしかったのです。青年は、相手が刑事だときくと少したじたじとしたようでしたが、それでも威勢よく反抗していました。が、力において勝った刑事は、難なく青年の右の手に捕縄をかけて、とうとう引っ張って行くじゃありませんか。おそらく、職務執行妨害とでもいうような罪名で、ともかくも、警察へ拉《らっ》して行こうという肚らしいのです。しかも若杉さんたちの立っていたところから、二、三間離れたところへ引きずって行ってから、顔を二つ三つひっぱたいたらしい、音さえきこえたそうです。おそらく、こんな刑事の乱暴は、現代の進歩した警察制度の下では、決して行われてはおりますまい。が、若杉さんの高等学校時代、即ち今から十数年前では、明らかに行われていたことに相違ありません。
 多感《センシティブ》な青年であった若杉さんが、これを見て極度に憤慨したのも、無理はありません。人権の蹂躪、人間に対する侮辱、それは正義の観念があくまでも強かった若杉さんにとっては、身の毛もよだつほどの不平であったのです。彼は、国家の権力が、こうした野蛮な人間によって乱用せられることを、身震いするほど恐ろしく思いました。
 その晩、寄宿舎へ帰ってからも、そうした不正に対する義憤は、なかなか静まりませんでした。床に就いてからも、またそのことを思い続けていました。その時にふと、将来法律を学んで、こうした無辜《むこ》の人々のために、侃諤《かんがく》の弁を振ってみようかという考えが、若杉さんの心に浮びました。
 若杉さんが、法科を選んだ遠因は、おそらくそこにあるのでしょう。が、直接の原因は、自分の尊敬する森田君が、急に文科を見限って法科に転じたためでしょう。その頃は、まだ今のように、法科生過剰の現象はありませんでしたから、法科へ転科するのは、今よりもずっと容易でした。が、弁護士になるはずであった若杉さんは、弁護士があまりに世俗的な、あまりに実際的な商売であるのに、嫌気がさし、卒業間際になってから、志を翻して、司法官になったのです。
 こうした経歴を持っている若杉裁判長が、普通の裁判官に比して、より内面的で、より人道的で、悪人や罪人を普通の人間とはまったく違った生存物だと見るような弊が少しも無かったのも当然だと思われます。その上若杉さんの罪悪観には、キリスト教的の分子が、よほど多量に含まれていた上に、すべての犯罪においても、人間的《ヒューマン》な動機を十分汲み取ることができたので、どうしても罪人を憎みきれなかったのでしょう。この罪人の血管を流れている血も、俺の血管を流れている血も、そう大した相違があるものではないという、裁判官としてはあまりに人間的《ヒューマン》に過ぎた信念が、常に若杉さんの裁判心理の中に動いていたのでしょう。もう一つ若杉さんの心理に動いていた感情は、どんなことがあっても、冤罪《えんざい》の人を作ってはならぬという考えでした。よく裁判の話の時に、引き合いになる格言ですが、「たとい九人の有罪者を逸するとも、一人の冤罪者《えんざいしゃ》を作ることなかれ」という戒《いまし》めです。若杉さんの胸には、そうした考慮が常に激しく動いていたらしいのです。
 まあ、言葉を換えていいますれば、若杉裁判長の判決がいかにも寛大であったということは、裁判長の人道的《ヒューマニスチック》な人格からの当然の帰結だといってもよ
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