。柔道の方の刑事が、獅子が獲物にでも飛びつくような勢いで、電光のように飛びかかりました。刑事は、むろん一大格闘を予期して飛びついたのですが、案外にも刑事の強い腕には、女のような華奢《きゃしゃ》な身体が触りました。撃剣の方の刑事が吹いた呼子で集まった署長以下の五人は、この少年を一目見ると、皆おやおやという顔をしました。
が、その弱々しい少年が、この恐喝取財未遂の犯人に相違ありませんでした。
その少年が、轟々たる世評のうちに、公判に付せられたのは申すまでもありません。全体、未成年者でもあるし、微罪不検挙になるはずであったのですが、この少年が、癇癪玉でもって実際に恐喝したということが、この少年のために、非常に不利な結果を及ぼしました。
が、この少年が予審で有罪になり、公判に付せられることになっても、この少年の同情者は、あまり失望しませんでした。公判となれば裁判長は若杉さんだ、実刑を課するようなことは決してあるまいと、皆が思っていたからです。
第一回の公判が開かれました。若杉裁判長の冒頭の尋問には、被告に対する溢れるような同情が見えました。被告の少年も、臆面もなく犯罪事実を述べたてました。そして、少年の無鉄砲さが、時々裁判長を苦笑させました。実際、この少年は、冒険譚《ぼうけんだん》などにかぶれた少年が往々無鉄砲なことをやるのと同じような意味で、しらずしらずこの大それた犯罪に陥ったようです。要するに、少年に特有なロマンチックな傾向が、つい邪道に陥ったのに過ぎませんでした。若杉裁判長は、少年の心理に、十分同情することができました。だから、立会の検事が、少年の心理に少しの理解を持たない峻厳な論告をした時、どうしても、心のうちで首肯することができませんでした。
弁護士の熱烈な弁護をきかない前から、執行猶予を与えるということは、裁判長の肚の中では、もうきまっていたらしいです。弁護士は、二時間に近いほどの雄弁を振いました。弁護士の弁護の力点はなんでも、この少年の犯罪は、これ少年自身の罪にあらずして、社会の罪である。換言すれば、教育家と活動写真との罪であるといったふうな主旨でした。が、実際裁判官の眼下に、蒼くなって、神妙に控えている少年を見た時は、誰でも憐憫の情を催さずには、いられませんでしたろう。色白の丸顔で、愛くるしい少年でした。実際、この少年が、ほんの悪戯《いたずら》でやったことを、警察署が大騒ぎをやって恐喝取財という大事件にこさえ上げた観がないでもありませんでしたから。
この時、若杉裁判長は、弁護士の弁論をききながら、自分の少年時代を回想していました。すると友達の悪太郎に使嗾《しそう》せられて、隣村の林檎畑《りんごばたけ》へ夜襲《ナイトレーデ》を行ったことを、歴然と思い出しました。それは少年の心をわくわくさせるようなロマンチックな冒険でした。それは、法律的に解釈すれば、立派な野外窃盗でした。が、少年時代に、ともすれば誰でも行いやすい奔放な自由な冒険的な悪戯を、ことごとく犯罪視することが、果して正当なことでしょうか。実際、若杉裁判長の心は、この少年に対する同情でいっぱいでありました。むろん、優等生で級長であったという事実も、裁判長の心を動かしたに違いありません。
判決言い渡しの日は、この次の月曜日ということになって、法廷は閉じられました。
翌日の新聞紙は、法廷の光景を伝えると同時に、少年が執行猶予の恩典に浴すべきことを、正確なる事実として、予想してありました。被告の少年に対する同情者も、またこのことについては少しの疑念も懐いておりませんでした。
ところが、その判決があるという、月曜日の三日前、即ち金曜日の晩に、若杉裁判長の身に、偶然ある事件が起りました。
と、いうのは、その金曜日の晩、それはなんでも三月の何日かに当っていました。若杉さんの家では、産後間もない夫人がまだ産褥《さんじょく》を離れていない時でした。もう男の子三人のお母さんでしたが、いつもお産が長びくので、産後の衰弱は、傍《はた》の見る目も痛々しかったほどです。でその晩も、常ならば夜遅くまで騒ぎ回る男の子も、宵から強制的に寝かされていました。そして若杉さんだけは、次の茶の間に身動きもせずに、寝ている妻に時々言葉を掛けながら、書斎で十二時頃まで、書見に耽《ふけ》っていましたが、十二時を打つを合図に、下女がその部屋に敷いて置いた床の中へ入りました。その時次の間の妻に、言葉を掛けましたが、もう寝てしまったと見えて返事はありませんでした。
幾時間経ったでしょう。若杉さんは、ふと目をさましました。すると、夫人が寝ている茶の間とは反対の側の居間の方から、コトコトという音がきこえてきました。若杉さんは、大方鼠どもが、居間の棚のうえを駆け回っているのだと思って、再び目を閉じまし
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング