たが、その物音は、うるさく続いてきました。
が、いつもは鼠が居間で暴れることはないはずだのにと考えていると、若杉さんはようやく、鼠が暴れる原因がわかりました。それは、妻の産見舞として、到来したたくさんの菓子箱や果物籠などを、棚の上に積み重ねてあったことです。それと気がつくと、若杉さんは声を出して、鼠を追おうと思いましたが、次の間に寝ている妻をおどろかしてはならぬと気がつくと、そっと自分で床を抜け出して、枕元に袖だたみにしてあった着物を着流し、寝るときに消しておいた電灯を捻りました。そして妻を起さぬようにと抜き足して、居間の方へ近づいて、襖《ふすま》を開けました。書斎の電灯の光が開いた襖の間から次の間を照しましたが、それはほんの中央部だけでした。若杉さんは、なんの気なしに次の間へ足を踏み込みました。が、その刹那、ただならぬ気配が、電灯の光の及ばない箪笥《たんす》の置かれた片隅でいたしました。人だ泥棒だと、若杉裁判長は、電気に打たれたようにそこに立ち尽しました。すると、その闇の中から頑丈な一人の大男が、すっくとばかり、若杉さんの目の前に立ちました。実際、若杉さんは、今まで被告函の中に畏《かしこ》まっている大人しい窃盗や強盗や殺人犯なら、幾人見たかわかりません。たいていは、ぺこぺこ頭を下げて、神妙に縮み上っている男ばかりでした。が、今宵若杉さんの前に立っている本当の泥棒は、そう大人しい人間ではありません。見つけられたからは、居直ってやろうという肚を、ありありと見せていました。そこには、裁判官と被告という関係の代りに、赤裸々な人間同士の力ずくの関係しか、予期せられませんでした。一秒、二秒、三秒、泥棒の方でも、動きませんでした。若杉さんの方でも動きませんでした。若杉さんは、全身を押し詰まされるような名状しがたい不快な圧迫を感じていました。が、その中でも、若杉さんの理性は、懸命の力をこめて、善後策を講じていたのです。男の意地としても、裁判官の威厳を保つためにも、泥棒ぐらいは取り押えることが、必要でした。が、その格闘の恐ろしいものの音が、産褥にある妻に与える激動、また居間の向うの六畳に寝ている、幼い三人の愛児に与えるおどろきと危険とを考えると、若杉さんの手は、どうしても延びなかったそうです。若杉さんは、この泥棒に相当の金をやって無事に帰ってくれと哀願しようとさえ考えたくらいです。が、それも裁判官としては、あまりに威厳のないことでした。その時に、ふと「泥棒は逃せばよい」という考えが浮びました。若杉さんは、泥棒の不意の襲撃を避けるために、二、三歩後へ退きながら「わあーっ」と力限りの大声を出しました。が、その声は、まったく予期しない結果をひき起しました。若杉さんは、自分の声が終るか終らぬかに、次の部屋から夫の声に怯《おび》えた妻の恐ろしい悲鳴をききました。それと、同時に居間の向うの部屋からは三人の愛児が、おどろいて泣き出しました。
親子五人の声におどろいたと見え、泥棒はいつの間にかいなくなっていました。むろん、一物《いちもつ》も盗んではいませんでした。
が、衰弱した身体《からだ》にそうした激動を受けた夫人は、急に高熱が出たのも無理はありません。その翌日は、四十度に近い熱が一日続きました。その上、極度に過敏になった夫人の神経は、些細《ささい》な物音にも怯えるようになりました。主治医は、夫人の生命そのものについても、憂慮を懐くようになりました。
その上、三人の愛児までが、その夜のできごとがあって以来、妙にものに怯える臆病な子供になりました。
若杉さん自身も、あの泥棒と相対峙《あいたいじ》した一分間ばかりの、息も詰まるような、不快な、不安な圧迫から、なかなか抜けきることができませんでした。
若杉さんは、盗賊に見舞われた不快な印象を、まざまざと頭の中に浮べながら、こういうことを考えました。自分は学校を出てから十四、五年の間、罪ということばかりを、考えてきた。そして、その罪に適当な刑罰を課することを、自分の職責としてきた。が、実際自分は本当に罪ということを正当に考えてきたであろうか。それは、あまりに罪を抽象的に考えてきたのではあるまいか。罪人の側からのみ、罪を考えていたのではあるまいか。自分の目の前に畏まっている被告が、いかにも大人しく神妙なのに馴れて、彼らが被害者に及ぼした恐ろしい悪勢力については、なんの考慮をも費やさなかったのではあるまいか。
そう考えてくると、若杉さんは、自分の過去において下した判決の基礎を為した信念が、だんだん揺《ゆら》いでくるのを感じました。若杉さんを襲った賊、それは罪名からいえば、窃盗未遂でした。が、一家に及ぼした悪影響を考えれば、身の毛もよだつほどです。夫人が、それから受けた激動のために発熱し、その発熱のために衰
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