、リザベッタに最後の名残を告げようと思っていた。撤退の準備として、ワルシャワの工場は、もうたいてい火を掛けられていた。それと独機の爆弾のために起っている火事とで、ワルシャワの街は煌々《こうこう》と明るかった。イワノウィッチは、中隊長の目を盗んで、秘《ひそ》かにワジェンキの営舎を抜け出たのである。
道では、折々避難者の馬車に会った。彼らは家財や道具を崩れ落ちるほど馬車に積んで、停車場の方角へ急いでいた。
が、その晩もワルシャワの市民の大部分は、まだ落着いていた。芝居も活動小屋も興行を続けていた。今ワルシャワを占領している者も、彼らには他人であった。二、三日後にワルシャワを占領する者も、また彼らには他人であった。
その夜、リザベッタは、市街の混乱と騒擾《そうじょう》とを恐れて出演してはいなかった。彼女は極度に興奮していた。夏の夜に適《ふさわ》しい薄青い服を着て、ソファに倚《よ》りながら、不安な動揺にみちた瞳を輝かしながら市街に起る雑多な物音に脅えていた。
彼女は、イワノウィッチがドアを開けると、すぐ駆け寄りながら、
「ワルシャワは陥ちるのでしょうか」と深い憂慮に震えながら尋ねた。
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