軍である。
だから平場《ひらば》の戦いでは、毛利は到底、陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に築城する事だ。
元就は、厳島に築城して、ここが毛利にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍を誘《おび》き寄せて、狭隘の地に於て、無二の一戦を試みようとしたのである。
元就が厳島へ築城を初めると、元就の隠謀を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いて若《も》しこれが陶に取られると、安芸はその胴腹に匕首《ひしゅ》を擬せられるようなものである」と。
元就はそういう家臣の反対を押切って、今の要害|鼻《はな》に城を築いた。現在連絡船で厳島へ渡ると、その船着場の後の小高い山がこの城址である。城は弘治元年六月頃に完成した。
すると元就は家来達に対して、「お前達の諫《いさめ》を聞かないで厳島に城を築いて見たが、よく考えてみると、ひどい失策をしたもんだ。敵に取られる為に城を築いたようなもんだ。あすこを取られては味方の一大事である」と言った。
戦国の世は、日本同士の戦争であるから、スパイは、敵にも味方にも沢山入り混っていたわけだから、元就のこういう後悔はすぐ敵方へ知れるわけである。其上、其の頃一人の座頭が、吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語って、いつか元就の城へも出入している。元就は、之を敵の間者と知って、わざと膝下《ひざもと》へ近づけていた。ある日、元就、老臣共を集め座頭の聞くか聞かないか分らぬ位の所で、わざと小声で軍議を廻《めぐ》らし、「厳島の城を攻められては味方の難儀であるが、敵方の岩国の域主、弘中三河守は、こちらへ内通しているから、陶の大軍が厳島へ向わぬよう取計らってくれるであろう」と囁《ささや》いていた。
座頭は鬼の首でもとったように、此事を陶方へ注進したのは勿論である。
弘治元年九月陶晴賢(隆房と云ったが、後晴賢と改む)二万七千余騎を引率し、山口をうち立ち、岩国永興寺に陣じ、戦《いくさ》評定をする。晴賢は飽く迄スパイの言を信じ、厳島へ渡って、宮尾城を攻滅《せめほろぼ》し、そして毛利の死命を制せんという考である。
岩国の城主弘中三河守|隆兼《たかかね》は、陶方第一の名将である。元就の策略を看破して諫めて、「元就が厳島に城を築いている事を後悔しているのならば、それを口にして言うわけはない。元就の真意は、厳島へ我が大軍をひきつけ、安否
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