の合戦して雌雄を決せんとの謀《たくらみ》なるべし。厳島渡海を止め、草津、二十日市を攻落し、吉田へ押寄せなば元就を打滅さんこと、時日を廻らすべからず」と言った。
だが頭のいい元就は、弘中三河守の諫言《かんげん》を封じる為に、座頭を使って、陶に一服盛ってあるのだから叶わない。晴賢は三河守の良策を蹴って、大軍を率いて七百余艘の軍船で厳島へ渡ってしまった。三河守も是非なく、陶から二日遅れて、厳島へ渡った。信長は桶狭間という狭隘の土地で今川義元を短兵急に襲って、首級をあげたが、併しそのやり方はいくらか、やまかんで僥倖《ぎょうこう》だ。それに比べると、元就は、計りに計って敵を死地に誘き寄せている。同じ出世戦争でも、其の内容は、比べものにならないと思う。
厳島の宮尾城は、遂《つい》此の頃陶に叛《そむ》いて、元就に降参した己斐《こひ》豊後守、新里《にいざと》宮内|少輔《しょうゆう》二人を大将にして守らせていた。陶から考えれば、肉をくらっても飽足らない連中である。
而も此の二人に陶を馬鹿にするような手紙を書かしているのである。つまり此の二人を囮《おとり》に使い、その囮を鳴かしているようなわけである。厳島に渡った陶晴賢は、厳島神社の東方、塔の岡に陣した。柵を結んで陣を堅め、唐菱《からびし》の旗を翻し、宮尾城を眼下に見下しているわけである。
陶が島に渡ったと聞くと、元就は、要害鼻の対岸、地御前《じごぜん》の火立岩《ひたていわ》に陣を進めた。ここは厳島とは目と鼻の地で、海をへだててはいるが、呼ばば答えん程に近い。だが敵は二万数千余、兵船は海岸一帯を警備して、容易に毛利軍の渡海を許さない。而も毛利の兵船は僅か数十艘に過ぎない。だから元就はかねてから、伊予の村上、来島《くるしま》、能島《のじま》等の水軍の援助を頼んでおいた。
この連中は所謂《いわゆる》海賊衆で、当時の海軍である。
元就はこの連中に兵船を借りるとき、たった一日でいいから船を貸してくれと言った。所詮は戦に勝てば船は不用であるからと言った。水軍の連中思い切ったる元就の言分かな、所詮戦は毛利の勝なるべしと言って二百余艘の軍船が毛利方へ漕《こ》ぎ寄せた。
陶の方からも勿論来援を希望してあったので、この二百艘の船が厳島へ漕ぎ寄するかと見る間に、二十日市(毛利方の水軍の根拠地)の沖へ寄せたので、毛利方は喜び、陶方は失望した。
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