正頼の三本松の城へ加勢を遣した。この加勢の大将は城より出で、陶方に対して高声に言うには、「毛利|右馬頭《うまのかみ》元就、正頼と一味し、当城へも加勢を入れ候。加勢の大将は某《それがし》なり、元就自身は、芸州神領|表《おもて》へ討出で、桜尾、銀山の古城を尽《ことごと》く攻落して、やがて山口へ攻入るべきの状、御用心これあるべし」と叫んだ。
 陶はさぞ吃驚《びっくり》しただろう。芸州神領表というのは、その辺一帯厳島の神領であったのである。
 兎に角元就は、雄志大略の武将であった。幼年時代厳島に詣《もう》で、家臣が「君を中国の主になさしめ給え」と祈ったというのを笑って「何故《なぜ》、日本の主にならせ給えとは祈らぬぞ」と云った程の男だから、主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して、我取って代らんという雄志大略の方が強かったのである。
 北条早雲が、横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆をとったやり方などよりは、よっぽど、理窟があるが、結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。
 元来元就は、戦国時代の屈指の名将である。徳川家康と北条早雲とを一緒につきまぜて、二つに割った様な大将である。寛厚慈悲家康に過ぐるものがある。其の謀略を用いる点に於ては家康よりはずっと辛辣《しんらつ》である。厳島合戦の時、恰度《ちょうど》五十二歳の分別盛りである。長子隆元三十二歳、次子|吉川《きっかわ》元春二十三歳、三子隆景二十二歳。吉川元春は、時人《じじん》梅雪と称した。
 熊谷伊豆守の娘が醜婦で、誰も結婚する人が無いと聞き、其の父の武勇にめでて、「其の娘の為めにさぞや歎くらん。我婚を求むれば、熊谷、毛利の為めに粉骨の勇を励むらん」と言って結婚した男である。
 乃木将軍式スパルタ式の猛将である。三男の隆景は時の人これを楊柳とよんで容姿端麗な武士であった。其の才略抜群で後《のち》秀吉が天下経営の相談相手となり、秀吉から「日本の蓋でも勤まる」と言われたが、而も武勇抜群で、朝鮮の役《えき》には碧蹄館《へきていかん》に於て、十万の明《みん》軍を相手に、決戦した勇将である。だから元就は「子までよく生みたる果報めでたき大将である」と言われた。
 だが此時毛利は芸州吉田を領し、其所領は、芸州半国にも足らず、其の軍勢は三千五、六百の小勢であった。これに対して、陶晴賢は、防、長、豊、筑四州より集めた二万余の大
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