大和と知合いの間柄だった。大和は、文武の達者で、和歌の名人であったから、元就かねて生擒《いけどり》にしまほしきと言っていたのを光景思出し、大和守に其意を伝えて、之を生擒にした。
陶入道は、尚西方に遁れたが、味方の兵船は影だになく、遂に大江浦にて小川伝いに山中に入り、其辺りにて自害したと言われている。
伊加賀民部、山崎|勘解由《かげゆ》等これに殉じた。晴賢の辞世は、
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なにを惜しみなにをうらみむもとよりも
此の有様の定まれる身に
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この時同じく殉死した垣並《かきなみ》佐渡守の辞世は、
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|莫[#レ]論[#二]勝敗跡[#一]《しょうはいのあとをろんずるなかれ》
人我暫時情《ひとわれざんじのじょう》
一物不生地《いちぶつふしょうのち》
山寒海水清《やまさむくかいすいきよし》
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家臣は、晴賢の首を紫の袖に包み、谷の奥に隠しておいたが、晴賢の草履取り乙若というのがつかまった為、其|在所《ありか》が分った。
弘中三河守は、大聖院へひき上げたが、大元方面へ退いた味方の軍の形勢を見て、折あらば敵を横撃せんと、機会を覘《ねら》っていたが、大元竜ヶ馬場方面も脆《もろ》く敗退した為、大元と大聖院との間の竜ヶ馬場と称する山上へ登り、此処を最後の戦場として父子主従たった三人になる迄吉川軍と決戦して遂に倒れてしまった。
此の人こそ、厳島合戦に於ける悲劇的英雄である。
これで厳島合戦も毛利軍の大勝に帰したわけであるが、晴賢自殺の場所については、厳島の南岸の青海苔浦《あおのりのうら》(青法ともかく)という説もあるが、晴賢は肥満していて歩行に困難であったと言うから、中央の山脈を越して南岸に出るわけは無いのである。
元就は合戦がすむと、古来此の島には、決して死人を埋葬しないことになっているので、戦死者の死骸は尽く対岸の大野に送らせ、潮水で社殿を洗い、元就は三子を伴って斎戒して、社前に詣で、此の大勝を得たことを奉謝している。
元就は斯くて十月五日に二十日市の桜尾城に於て凱旋式《がいせんしき》を挙行しているが、彼は敵将晴賢の首級に対してもこれを白布にて掩《おお》い、首実検の時も、僅かに其白布の右端を取っただけで、敵将をみだりに恥かしめぬだけの雅量を示している。其の後首級は、二十日市の東北にあ
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