あ! それがさあ!」彼は、ちょっといいよどんだが、すぐ旧主の源太夫が、どうして十石の武士を棒に振ったかということを思い出した。それは、彼に用意されている手近の嘘だった。
「それがさあ! 酒の上の過ちで、つい朋輩と口論に及んで武士の意地から……」
嘉平次はいつの間にか、無意識のうちに、武士らしい口調になっていた。
「よくあるやつだ! それで相手を見事にやりなさったのだな!」
「まったく……」
嘉平次は武士《さむらい》らしく凜然と答えた。
「うむ!」
「なるほど」
「うむ!」
一座は固唾《かたず》をのんでしまった。それはいままでのような煽《おだ》て半分の感嘆ではなかった。それは、料理といったような、人間として武士としての末技に対する感嘆ではなかった。武士そのものに対する感嘆だった。嘉平次は、自分が本当に武士であり、勇士であるように幻覚を感じた。
一座の者は、みんな熱心にその詳細を知りたそうな顔付をしている。彼は一座の者を満足させると同時に、もっと自分が英雄視せらるる快感を味わいたかった。彼は旧主の鈴木源太夫が朋輩の幸田|某《なにがし》を打ち果した前後の様子を、古い二十年近い昔の記憶から探り出していた。が、旧主の源太夫の刃傷《にんじょう》には、少しも武士らしいところはなかった。朋輩の幸田某の妻に横恋慕をして、きかれなかった恨みから、幸田の家を訪ねて対談中に、相手の油断を見すまして、不意に斬りつけたのである。その上に、逃げ出そうとするところを、幸田の妻に追いかけられて、一太刀斬りつけられたように覚えている。それをそのままに話すことは、一座の不快と反感とを買うことである。彼は、その話を訂正しながら話しはじめた。
「口論の始まりというのはな。その男が、槍術が自慢でな。その日も、俺と槍術の話になったのじゃが、つい議論になってなあ。相手が、『料理番の貴殿に、武術の詮議は無用じゃ』と、口を滑らしたのが、お互いの運の尽きじゃ。武士として、聞き捨てならぬ一言と思ったから、『料理番の刀が切れるか切れぬか、受けてみい!』と斬りつけたのじゃ」
「うむ!」
「うむ!」
「うむ!」
一座の中間たちは、嘉平次の話しぶりに、すっかり魅せられてしまった。
自分のいっていることが、本当は嘘でなくして真実であるような得意さを感じた。
「俺はな、子供の時から、竹内流の居合が自慢でなあ!」
彼はそういって、皆に気を持たせた。
「うむ!」
「うむ!」
中間たちは、口々に呻った。
「抜打の勝負じゃ。はははははは」嘉平次は、浩然として笑った。
一座はしーんとした。
「柄に手がかかったと思ったときには、もう相手の肩口から迸った血が、さっと、まだ替えてから間もない青畳の上に散っていた」
実際、嘉平次の頭の中にも、そうした光景がまざまざと浮んだ。
「ほほう!」
「うむ!」
中間たちの感嘆は絶頂に達した。
「家人なども、定めし出合いましたろうな」
中間頭の左平の言葉遣いまでが、すっかり改まっていた。中間たちは、嘉平次が斬りかかる中間小者などを、左右に斬り払う勇壮な光景を予想していた。が、嘉平次はもっと別な点で、自分の武士を上げたかった。
「いや、中間小者などは、俺の太刀先に恐れをなして誰一人向かって来ぬ。が、さすがに連れ添う内儀じゃ。夫の敵とばかり、懐剣を逆手に俺に斬りかかって来た」
話が急に戯曲的な転回をしたので、一座ははっとどよめいた。嘉平次は、自分の話の効果を確かめるように、悠然と一座を見回した。
「不憫ながら、一刀の下におやりなすったか」お庭番の中間が、待ちきれないようにきいた。さっきのように、煽て半分、揶揄《からかい》半分の口調などは微塵も残っていなかった。
「そうは思ったが、あまりに不憫でな。しかもまだ縁付いてきてから一年にもならない若い内儀じゃ。ことに、深い宿意があって打ち果したという敵じゃなし、女房の命まで取るのは無益《むやく》だと思ったから、斬りかかる懐剣の下を潜って、相手の利腕を捕えた。はははは、その時には、女と思って油断をしたために、つい薄手を負ったのが、この二の腕の傷じゃ」
彼は、自分の腕をまくって、二の腕の傷を見せた。それは、彼が丸亀を退散して、京の四条の茶屋の板前を勤めていたとき、血気の朋輩と喧嘩をして、お手の物の包丁で斬りつけられた傷である。彼は、それを時にとっての証拠として、自分の話に動かせない真実性を加えたのであった。彼は、自分の当意即妙に、自分で感心した。
「どれ! どれ!」一座のものは、杯盤の間を渡って来て、彼の傷に見入った。もう、誰一人として、彼の話を疑っているものはなかった。
「それで、その内儀はどうなすった!」
皆は話の結末をききたがった。
「持っていた懐剣を放させて、そこへ突き放したまま悠々と出てきたが、さすが
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