に、後を追うて来るものはなかった。その足で、すぐ退転いたしたが、もう二十年に近い昔じゃ。今から考えると短慮だったという気もするが、武士の意地でな。武士としてこれ堪忍ならぬところじゃ!」
「道理じゃなあ。が、御身様の仕儀に、一点のきたないところもない。それをいい立てて、立派な主取りでもできるくらいじゃ」
「料理人などをさせておくのは、まったくもって惜しいものだ! 推挙さえあれば、その腕で三十石や、五十石はすぐじゃ!」
嘉平次は、鷹揚に笑った。
「こう年が寄ると、仕官の望みなぞは、毛頭ないわ。御身たちにこうして昔話などするのが、何よりの楽しみじゃ」
「嘉平次殿のお杯を頂戴しよう」
皆は次々に嘉平次の杯を貰った。
彼は生れて六十幾年の間に、今宵ほど、得意な時はなかった。彼は、平生の大酒に輪をかけて、二升に近い酒を浴びていた。
その夜、大酔した嘉平次が、蹣跚《まんさん》として自分のお長屋へ帰ろうとして、台所口を出たときだった。
「親の敵!」という悲痛な叫びと共に、匕首《あいくち》が闇に閃いたかと思うと、彼は左の脇腹を抉《えぐ》られて、台所口の敷居の上に、のけざまに転倒した。
家人たちが、銘々酔顔を提《さ》げて駆け集ったとき、つい先頃奉公に上ったばかりの召使いのおとよ[#「おとよ」に傍点]という女が、半身に血を浴びながら、
「親の敵を討ちました。親の敵を討ちました」と、絶叫していた。
幸田とよ[#「とよ」に傍点]女の敵討は、丸亀藩孝女の仇討として、宝暦年間の江戸市中に轟き渡った。江戸の市民は、まだ二十になるかならぬかのかよわい少女の悲壮な振舞いを賛嘆し合った。とよ[#「とよ」に傍点]女の仇討談が、読売にまで歌われていた。それによると、父の幸田源助が討たれたとき、とよ[#「とよ」に傍点]女は、母の胎内に宿ってから、まだ三月にしかなっていなかった。母は、夫の横死の原因が自分であることを知っていたために、亡夫のために貞節を立て通した。とよ[#「とよ」に傍点]女が十六のときに、母は不幸にして、他界した。彼女は、死床にとよ[#「とよ」に傍点]女をよんで、初めて父の横死の子細を語って、仇討の一儀を誓わしめたというのであった。貞節悲壮な母子《おやこ》に対する賞賛は、江戸の隅々にまで伝わった。
嘉平次が、敵の鈴木源太夫であることについて誰も疑いを挟まなかった。町奉行の役人が、検死の時、念のためにというので、丸亀藩の屋敷へ人を迎えにやったが、ちょうど藩主が在国していたので、定府たちの間には、鈴木源太夫を見知っているものは、一人もいなかった。
ただ、当人のとよ[#「とよ」に傍点]女だけには、敵の傷の場所が、母の遺言の通り、眉間になくして、二の腕にあったのが、ちょっと気になった。が、すぐ、母は夫を打たれたときに気が動転していたために、相手の眉間に飛びついていた血潮を、手傷だと思い違ったのだろうと思い直した。
とよ[#「とよ」に傍点]女の孝節が、藩主の上聞に達して、召し還された上、藩の家老の次子を婿養子として、幸田の跡目を立てられて、旧知の倍の百石を下しおかれたのは、同じ宝暦五年の九月のことである。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:大野 晋
2000年8月26日公開
2003年9月7日修正
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