仇討三態
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)越《こし》の御山《みやま》永平寺
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)雪|作務《さむ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おとよ[#「おとよ」に傍点]
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その一
越《こし》の御山《みやま》永平寺にも、爽やかな初夏が来た。
冬の間、日毎《ひごと》日毎の雪|作務《さむ》に雲水たちを苦しめた雪も、深い谷間からさえ、その跡を絶ってしまった。
十幾棟の大伽藍を囲んで、矗々《ちくちく》と天を摩している老杉《ろうさん》に交って、栃《とち》や欅《けやき》が薄緑の水々しい芽を吹き始めた。
山桜は、散り果ててしまったが、野生の藤が、木々の下枝《しずえ》にからみながら、ほのかな紫の花房をゆたかに垂れている。
惟念《ゆいねん》にも、僧堂の生活がようやく慣れてきた。乍入《さにゅう》当時の座禅や作務の苦しさが今では夢のように淡く薄れてしまった。暁天の座禅に、とろとろと眠って、巡香の驚策《きょうさく》を受くることも数少なくなった。正丑《しょううし》の刻の振鈴に床を蹴って起き上ることも、あまり苦痛ではなくなった。午前午後の作務、日中|諷経《ふぎん》、念経、夜座《やざ》も、日常の生活になってしまった。
挂塔《けいとう》を免《ゆる》されたのが、去年の霜月であったから、安居《あんご》はまだ半年に及んだばかりであったけれども、惟念の念頭からは、諸々《もろもろ》の妄念が、洗わるるごとくに消えて行った。心事は元より未了であったけれども、心《しん》澄み、気冴えた暁天の座などには、仏種子《ぶっしゅし》が知らず知らず増長して、かすかながらも、悟道に似た閃きが、心頭を去来することがあった。
親の敵《かたき》を求めて、六十余州を血眼になって尋ね歩いた過去の生活が、悪夢のように思い出される。父親を打たれたときの激怒、復讐を誓ったときの悲壮な決心、それが今でもまざまざと思い出されるが、もう実感は伴わない。四、五年の間は、関東関西と、梭《おさ》のように駆け回った。が、そのうちに、こんなに焦っても、時機が来なければ討てるものではないと考えた。彼は、江戸に腰を落ち着けて、二年ばかりゆっくりと市中を尋ね歩いた。が、敵の噂をさえきくことができなかった。彼はまた焦りはじめた。江戸を立って久しぶりに東海道を上ったのが、元禄三年の秋で、故郷の松江を出てから八年目、彼は三十の年を迎えていた。畿内から中国、九州と探し歩いたそれからの三年間にも、彼は敵に巡り合わなかった。江戸を出るときに用意した百両に近い大金も、彼が赤間ヶ関の旅宿で、風邪の気味で床に就いた時には、二朱銀が数えるほどしか残っていなかった。
彼は、門付《かどづけ》をしながら、中国筋を上って、浪華《なにわ》へ出るまでに、半年もかかった。浪華表の倉屋敷で、彼は国元の母からの消息に接した。母は、自分が老衰のために死の近づいたのを報じて、彼が一日も早く仇を討って帰参することを、朝夕念じていると書いていた。彼は、母の消息を手にして、心が傷《いた》んだ。十一年の間、空しく自分を待ちあぐんでいる痛ましい母の心が、彼を悲しませた。彼は新しい感激で、大和から伊勢へ出て、伊勢から東山道を江戸へ下った。が、敵《かたき》らしいものの影をさえ見なかった。尋ねあぐんだ彼は、しようことなしに奥州路を仙台まで下ってみた。が、それも徒労の旅だった。江戸へ引っ返すと、碓氷峠を越えて信濃を経て、北陸路に出て、金沢百万石の城下にも足を止めてみた。が、その旅も空しい辛苦だった。近江から京へ上ったのが、元禄九年の冬の初めである。国を出てから、十四年の月日が空しく流れていた。故郷の空が、矢も楯もたまらないように恋しかった。二十二で、故郷を出た彼は、すでに初老に近かった。母が恋しかった。安易な家庭生活が恋しかった。無味単調な仇討の旅に、彼はもう飽き飽きしていた。が、一旦、仇討を志した者が、敵《かたき》を討たないで、おめおめと帰れるわけはなかった。行き暮れて辻堂に寝たときとか、汚い宿に幾日も降り籠められていたときなどには、彼はつくづく敵討が嫌になった。彼は、いっそ京か浪華かで町人になり下って、国元の母を迎えてのどかな半生を過そうかとさえ思った。が、少年時代に受けた武士《さむらい》としての教育が、それを許さなかった。彼は自分の武運の拙さが、しみじみ感ぜられた。それと同時に、自分の生涯をこれほど呪っている父の敵が、恨めしかった。彼は敵に対する憎悪を自分で奮い起しながら、またまた二年に近い間、畿内の諸国を探し回った。
浪華の倉屋敷で、国元の母が死去したという知らせを得たのは、彼が三十八の年である、故郷を出てから十六年目であった。
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