太夫は、奉公人たちの酒宴の興を妨げぬ心遣いからであろう。日が暮れると、九段富士見町の縁類へ、年始のためだといって、出かけて行った。
家老や用人たちは、表座敷の方でうち寛《くつろ》いでいた。中間や小者や女中などは、台所の次の間で、年に一度の公けの自由を楽しんでいた。
二更を過ぎた頃になっても、酒宴の興は少しも衰えなかった。若い草履取や馬丁は、この時だというように、女中に酌をしてもらいながら、ぐいぐいと飲み干した。
松の葉崩しや海川節《かいせんぶし》を歌い出すものがある。この頃はやり出した吾妻拳を打ち出すものがある。立ち上って踊り出すものがある。
台所で立ち働いていた料理番の嘉平次までが、たまらなくなって、板前の方をうっちゃらかして酒宴の席へ顔を出した。
「嘉平か? 御苦労! もう食い物の方はたくさんだ。さあ! 貴公もそこへ座って一杯やれ!」
中間の左平が、それを見ると、すぐに杯をさした。
嘉平次は、六十を越していた。が、彼は新参ではあるが、一家中で誰知らぬ者もない酒好きであった。さっきから、燗番をしながら、樽から徳利の方へ移すときに、茶碗で幾杯も幾杯も盗み飲みをしたので、すでにとろりとした目付をしていたが、目の前にあった杯洗の水をこぼすと、元気よくこれを前に突き出した。
「親方、俺はそんなもんじゃまだるっこい! これで、ぐいとやりてえ!」
「いよう豪勢だ!」
彼は、一座の賞賛を受けながら、杯洗で三杯まで重ねた。さすがに最後の一杯は飲み渋った。酔いが、健康らしい褐色の老顔にもありありと現れた。
「嘉平次さん! お前さんの包丁は、また格別だな、いつもお上のお残り頂戴で、本当に味わったのは今日が初めてだが、お前さんが自慢するだけあらあ!」
草履取の中間が真正面《まとも》から賞め立てた。
「えへへへへへへ」お調子者の嘉平次は、上機嫌になりながら、そのだらしない口元から、落ちそうになる涎《よだれ》を、左の手で幾度も拭った。
「きけば、お前さんは、上方で鍛え上げた腕だそうだが、料理はなんといっても上方だなあ!」
中間頭の左平までが、子細らしく感心してみせた。
「えへへへへへ、えへへへへへ」嘉平次は、おだて上げられて、いやしい嬉しそうな笑いが、止めどなく唇から洩れた。
「なんでもお前さんは、若い時は大名のお膳番を勤めたことがあるそうだが、本当かな!」
お庭番の中間が、意識して嘉平次を煽《おだ》てにかかった。
「うむ! なるほど、なるほど」
一座の者は、初めてきいたように感嘆した。好人物の嘉平次を煽ててやろうという心がみんなの心に少しずつ湧いていた。
「えへへへへへ、そいつを知っておられると、お恥かしい!」
嘉平次は、恥かしそうに、頭を掻いた。が、恥かしそうにしたのは、表面だけである。彼が大名のお膳番を勤めたということは、彼の好んでつく嘘だった。彼は、酒を飲むと決ったようこの嘘をついた。もう、この屋敷へ来てからも、二、三度は繰り返した嘘である。
本当に、讃州丸亀の京極の藩中でお膳番を勤めたのは、彼の旧主の鈴木源太夫である。彼は源太夫の家に中間として長い間仕えていたために、見様見真似に包丁の使い方を覚えたのに過ぎないのである。
「お膳番といえば、立派なお武士《さむらい》だ!」
お庭番の中間が、のしかかるように、煽てた。嘉平次は、そういってくれるのを待っていたのである。が、彼はまた頭を掻いてみせた。
「お膳番なんて、武士《さむらい》のはしくれでさ、知行といって、僅か二十石五人扶持、足の裏にくっついてしまいそうな糊米ほどしかありませんや」
彼は、いかにもそれを軽蔑したような口調で、二十石五人扶持といったが、彼の旧主の鈴木源太夫の知行でさえ、本当は十石三人扶持しか取っていなかった。
「二十石五人扶持! 俺たちは、生涯にたった一度でもいいから、ありついてみたいものだ!」
お庭番の中間は、執拗に油をかけた。
「立派な上士格だ!」中間頭の左平までが、相槌を打った。
嘉平次は、相好を崩しながら、えへらえへらと笑った。実際お膳番を勤めていたのは、旧主の鈴木源太夫ではなくして、自分であったような気持にさえなっていた。
「道理で、包丁の味が違ってらあ!」
「この三杯酢の味なんか、お大名料理の味だ!」
嘉平次は、有頂天になっていた。彼は、お大名のお膳番の苦心談といったようなものを、話しはじめようかと思っていた。が、話題は彼の予期しない方へそれてしまった。
「そのお前さんが、どうしてまた、二十石の武士を棒に振りなさったのだ!」
左平が、崩れていた膝頭を立て直しながらきいた。嘉平次は、ちょっと狼狽した。彼は、ただ自分が昔お膳番を勤めていたとさえ思われさえすればよかったのだ。それから先の嘘は、少しも準備してはいなかったのだ。
「それがさ
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