刀恨まんためである、自分が一人で討ったならば、二人がさぞ本意なく思うであろうと。が、幸太郎は思い返した。二人は、今いずこにいるのか、先に手紙を出したが返事がない。敵の休右衛門は、七十を越した極老《ごくろう》の者である。二人の音信《たより》を待つうちに、いつ病死するかもしれない。二人には、不義であろうとも、一日も早く多年の本懐を達するに若《し》くはないと。幸太郎は、そう決心すると、翌七日、黙昭を欺き寄せて多年の本懐を達したのである。
 父の弥五兵衛が討たれてから四十一年目、兄弟が敵討の旅に出てから三十一年目、兄の幸太郎は四十七歳、弟の盛次郎は四十五歳、伯父の留二郎は七十二歳の高齢であった。
 兄弟がめでたく帰参したときは、新発田藩では、嫡子主膳正|直溥《なおひろ》の世になっていた。が、君臣は挙《こぞ》って、幸太郎兄弟が三十年来の苦節を賛嘆した。幸太郎は、亡父の旧知百五十石に、新たに百石を加えられた、盛次郎は新たに十五石五人扶持を給うて近習の列に加えられた。
 一藩は兄弟に対する賛美で、鼎《かなえ》の沸くようであったが、その中で、鈴木兄弟だけは無念の涙をのんでいた。
 人々は幸太郎兄弟を褒める引合として、きっと鈴木兄弟を貶《けな》した。
「鈴木忠三郎は、兄を迎えるために、便々と日を過したというが、幸太郎殿の分別とは雲泥の違いじゃ。敵を探し出しながら、おめおめと病死させるとはなんといううつけ者じゃ」
 が、そんな非難はまだよい方だった。
「三十年の辛抱に比ぶれば、八年の辛苦がなんじゃ」
「八年探して、根の尽きる武士《さむらい》に、幸太郎兄弟の爪の垢でも、煎じて飲ませたい」
 世評は、成功者を九天の上に祭り上げると共に、失敗者を奈落の底へまで突き落さねば止まなかった。
 幸太郎兄弟が帰参してから十日ばかり経った頃だった。兄弟の帰参を祝う酒宴が、親類縁者によって開かれた。
 幸か不幸か、鈴木忠次郎は、久米家とは遠い縁者に当っていた。彼は、病気といってその席に連《つら》なるまいかと思ったが、悪意のある世評が、「あれ見よ。鈴木忠次郎は、面目なさに幸太郎殿の祝宴から逃げたぞよ」と、後指を指すことは、目に見えているように思われた。
 きかぬ気の彼は、必死の覚悟でその酒宴に連なった。彼は初めから黙々として、一言も口を利かなかった。一座の者の幸太郎兄弟に対する賞賛が、ことごとく針のように、彼の胸に突き刺さった。が、中座することは、彼の利かぬ気が許さなかった。
 夜の更けると共に、一座の客は減っていた。幸太郎は鈴木兄弟の不運をすでに知っていたのだろう。客の減るのを計って、座を立つかと思うと、杯を持ちながら忠次郎の前へ来た。半知になっていても、忠次郎の方が家格は遥かに上であった。
「貴殿からも、杯を一つ頂戴いたしたい」
 幸太郎は、忠次郎が蒼白《まっさお》な顔をしながらさした杯を快く飲み干しながら、
「御不運のほどは、すでにきき及んだ。御無念のほどお察し申す」
 幸太郎の言葉には、真摯な同情が籠っていた。自分でも敵を狙ったものでなければ、持ち得ない同情が含まれた。
 忠次郎はそれをきくと、つい愚痴になった。無念の涙がはらはらと落ちた。
「お羨ましい。お羨ましい。なんという御幸運じゃ、それに比ぶれば、拙者兄弟はなんという不運でござろうぞ。敵をおめおめと死なせた上に、あられもない悪評の的になっているのじゃ」
 忠次郎は、声こそ出さないが、男泣きに泣いた。
 幸太郎は、それを制するようにいった。力強くいった。
「何を仰せらるるのじゃ。一旦、敵を持った者に幸せな者がござろうか。御身様などは、まだいい。御身様は、物心ついた七歳の時から四十七歳の今日まで、人間の定命《じょうみょう》を敵討ばかりに過した者の悲しみを御存じないのじゃ」
 そういったかと思うと、三十年間の櫛風沐雨《しっぷうもくう》で、銅《あかがね》のように焼け爛れた幸太郎の双頬《そうきょう》を、大粒の涙が、ほろりほろりと流れた。
 忠次郎の傷ついた胸が、温かい手でさっと撫でられたように一時に和《なご》んでいた。
 二人は、目を見合わしたまま、しばらくは涙を流し合った。

     その三

 宝暦三年、正月五日の夜のことである。
 江戸牛込二十騎町の旗本鳥居孫太夫の家では、お正月の吉例として、奉公人一統にも、祝酒《いわいざけ》が下された。
 ことに、旧臘十二月に、主人の孫太夫は、新たにお小姓組頭に取り立てられていた。二十一になった奥方のおさち殿が、この頃になって、初めて懐胎されたことが分かった。
 慶《よろこ》びが重なったので、家中がひとしお春めいた。例年よりは見事な年暮《ねんぼ》の下され物が、奉公人を欣ばした。五日の晩になって、年頭の客も絶えたので、奉公人一統に祝い酒を許されたのであった。
 主人の孫
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