といい置いて、三日前に出発したことを知った。彼の落胆ははなはだしかった。彼は、油で煮られるようないらいらしさで兄の帰宿を七日の間空しく待ち明かした。それでも、兄の忠次郎は、八日目に飄然として帰って来た。
兄は、弟から敵発見の知らせをきくと、涙をこぼして嬉しがった。兄弟は、その夜のうちに大坂を立って、翌朝未明に京へ入った。
が、翌朝、弟が敵の家の様子を探るため、その家の前を通ったとき、意外にも、忌中の札が半ば閉ざされた門の扉に、貼られてあるのを見た。弟は愕然とした。彼はあわてふためきながら、隣家について、死者の何人《なんびと》であるかをきいた。死んだ者は、紛れもなく和田直之進であった。
弟は、最初それを容易には信ずることができなかった。自分たちに発見されたのを気づいたために、自分たちを欺こうとする敵の謀計《はかりごと》ではないかと思った。が、弔問の客の顔にも、近隣の人々の振舞にも、死者を悼む心がありありと動いていた。直之進の死を疑う余地は、少しも残っていなかった。
兄弟は、その夜三条小橋の宿屋で、相擁して慟哭《どうこく》した。短気でわがままな兄は、弟が見つけたときに、なぜ即座に打ち果さなかったかを責めた。が、その叱責が無理であることは、叱責している兄自身がよく分かっていた。兄は、切腹する切腹すると叫びながら、幾度も短剣を逆手《さかて》に持った。そのたびに温厚な弟が制した。果ては、兄弟が手をとって慟哭した。彼らの慟哭は、夜明けまでも続いた。
八年の辛苦が、ことごとく水泡に帰した。張りつめた気が、一時に抜けた。兄弟は、うつけ者のごとく、ただ茫然として数日を過した。
弟が、ようやく兄を慰めて、郷里の新発田へ帰って来た。弟は、京都を立つ前、ひそかに所司代へ願い出て、敵直之進が、横死した旨の書状を貰った。
兄弟の家は、八百石を取って、側用人を務むる家柄であった。藩では、さすがにこの不幸な兄弟を見捨てなかった。兄忠次郎に旧知半石を与えて、馬回りに取り立ててくれた。
が、忠次郎は怏々《おうおう》として楽しまなかった。その上、兄弟についての世評が、折々二人の耳に入った。それは、決して良い噂ではなかった。二人は、敵を見出《みいだ》しながら、躊躇して、得討《えう》たないでいる間に、敵に死なれたというのは、まだよい方の噂だった。悪い方の噂は、兄弟をかなり傷つけていた。和田淳庵という医師が病死したからといって、それが直之進であるとは決っていない。ことに父が討たれたときに、弱冠であった忠三郎が敵の面体を確かに覚えていようはずがない。その忠三郎が、一目見たからといって淳庵が直之進であると決めてしまうのは、不|穿鑿《せんさく》であると。これは、兄弟にはかなり手痛い非難であった。が、もっとひどい噂があった。兄弟は、敵討に飽いたのだ。わずか八年ばかりの辛苦で復讐の志を捨ててしまったのだ。和田淳庵という名もない医師が死んだのを、直之進が病死したのだといいこしらえて、帰参のいい訳にしたのだと。兄はそんな流言を聞くごとに、血相を変えていきり立った。彼はそうした噂をいいふらすものと、刺し違えて死のうと思っていた。が、そうした流言は、誰がいいふらすともなく、風のごとく兄弟の身辺を包んで流れるのであった。
兄弟にとっていちばん悲しいことは、そうした世の疑いを解くべき機会が、永久に来ないことだった。
年が明けると安政四年であった。兄弟にまつわる悪評も、やっぱり年を越えていた。が、安政四年の秋となり、冬となると、さすがに、兄弟のことを取り立てていう者もなくなった。短気な忠次郎も、腹を立てる日が、少なくなっていた。
が、兄弟が食うべき韮は、まだ尽きてはいなかった。
それは安政四年も押し詰まった十二月十日、同藩士の久米幸太郎兄弟が、父の仇、滝沢休右衛門を討って、故郷へ晴がましい錦を飾ったことである。
それが、なんという辛抱強い敵討であったろう。兄弟の父の弥五兵衛が、同藩士中六左衛門の家で、囲碁の助言から滝沢休右衛門に打たれたのが、文化十四年十二月、長男幸太郎が七歳、次男盛次郎が五歳のときであった。兄弟が伯父板倉留二郎の手に人と成って、伯父甥三人、永の暇《いとま》を願って、敵討の旅に出たのが、文政十一年、兄幸太郎が十七歳、弟盛次郎が十五歳の秋だった。伯父の留二郎は、四十二歳であった。
三人は文政から天保、弘化、嘉永、安政と、三十年間、日本国中を探し回った。幸太郎が安政四年に、陸奥国牡鹿郡折《むつのくにおじかごおりおり》の浜の小庵に、剃髪して黙昭と名乗って隠れて忍んでいる休右衛門を見出したのは、安政四年十月六日のことだった。
不幸にも、弟の盛次郎と伯父留二郎は、幸太郎と別れて関八州を尋ねていた。幸太郎は思った。弟や伯父の三十余年に渡る艱難も、ただこの敵に一
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