ば、手向いは仕らぬ。早々、お討ちなされい!」
老僧の言葉は道理至極だ。惟念は、老僧を討とうという激しい誘惑を刹那に感じたが、それにもようやくにして打ち勝った。
「ははははは、何を申されるのじゃ。この期《ご》に及んで武儀の頓着は一切無用じゃ。愚僧は、もはや分別を究《きわ》め申した。御身を敵と思う妄念は一切断ち申す。もし、貴僧にお志あらば、亡父の後生菩提をお弔い下されい!」
彼はそう潔くいい放つと、両手にも余る薪束を軽々と担ぎ上げながら、御堂の倉庫を指して一散に駆け下った。
薪作務があったために、その夜は「夜座《やざ》各景」の触れがあった。それは夜の禅座の休止を意味していた。が、惟念には、その夜は大事の一夜であったから、自分一人単前に打座した。
隣単の雲水たちが、相集って法螺《ほら》を吹いているのも耳にかけず、座禅三昧に心を浸した。いかに出家の身であるとはいえ、眼前にある父の敵を許したということが、執拗な悔恨となって心頭を去来したが、それがいつの間にか薄れてしまうと、神々しい薄明が心のうちをほのかに照らすような心持がした。初更の来たことを報ずる更点の太鼓と共に、いつもは大衆と共に朗読する「普勧座禅儀《ふかんざぜんぎ》」を口のうちで説えた。高祖|開闢《かいびゃく》の霊場で、高祖の心血の御作《ぎょさく》たる「座禅儀」を拝誦するありがたさが彼の心身に、ひしひしと浸み渡った。
彼が開枕板《かいちんばん》の鳴るのを合図に、座禅の膝を崩すまで、彼の心は初夏の夜の空のように澄み渡って、一片の妄念さえ痕を止めていなかった。
激しい薪作務の疲れのために、隣単の雲水たちは、函櫃《はこびつ》から蒲団を取り出して、それに包まると、間もなく一斉に寝入ってしまったのだろう。十四間四面の広い僧堂のかしこからもここからも、安らかな鼾《いびき》の声が高くきこえてきた。が、惟念には、昼間の疲れにもかかわらず、眠りはなかなか来なかった。座禅のために澄み切った心が、いつまでもいつまでも続いた。が、子《ね》の刻が近づくと、ついとろとろした。
彼は、夜半何事となくふと目覚めた。宵から、右の肩を下にして続けていたためだろう。右半身が痺れたように痛んだ。彼は、寝返りを打とうとした。が、不思議に彼の身体は動かなかった。彼は目を開いた。彼は、自分の顔の上におぼろげながら、人の顔を見た。聖龕の前の灯明の光しかない、ほの暗い堂内では、それが何人《なんびと》であるか、容易にはわからなかった。が、相手は彼が目覚めたのを知ると、明らかに狼狽した。
彼は、その狼狽によって、相手が昼間の老僧であることが分かった。それと同時に、その老僧の右の手に、研ぎ澄まされた剃刀《かみそり》がほの白く光っているのを見た。が、彼にはそれを防ごうという気もなかった。向うから害心を挟んできたのを機会に、相手を討ち取ろうという心も、起らなかった。ただ、自分が許し尽しているのに、それを疑って自分を害そうと企てた相手を憫む心だけが動いた。が、それもすぐ消えた。彼には、右半身の痺れだけが感ぜられた。
「愚僧は宵より、右肩を下につけ、疲れ申す。寝返りを許されい!」
彼は、口のうちで呟くようにいいながら、狭い五布《いつの》の蒲団の中で、くるりと向きを変えた。夢とも現《うつつ》ともない瞬間の後に、彼は再び深い眠りに落ちていた。
役僧の一人が、永平寺を逐電したのは、その翌日である。
その二
越後国|蒲原郡新発田《かんばらごおりしばた》の城主、溝口|伯耆守《ほうきのかみ》の家来、鈴木忠次郎、忠三郎の兄弟は、敵討の旅に出てから、八年ぶりに、親の敵和田直之進が、京師室町四条上るに、児医師《こどもいし》の看板を掲げて、和田淳庵という変名に、世を忍んでいるのを探り当てた。
それを初めに知ったのは、弟の忠三郎であった。二度目に上方へ上ったとき、兄弟は京と大坂に別れて宿を取った。別々に敵を尋ねるための便宜だった。
弟の忠三郎が、三条通りを何気なく歩いていたとき、彼は町家の軒先に止まった医師のそれらしい籠を見た。籠の垂《た》れを内から掲げながら、立ち出でた総髪の男を見たとき、彼は嬉しさのあまり躍り上りたかった。それは紛れもなく和田直之進だった。彼は、即座に名乗りかけて、討ち果したいと思ったが、兄のことがすぐに心に浮んだ。八年の間、狙いながら、肝心の場所にいあわさない兄の無念を想像すると、自分一人で手を下すことは、思いも寄らなかった。彼は逸《はや》る心を抑えながら、直之進が再び籠に乗るのを待ったのである。
彼は、敵の在《あ》り処《か》を突き止めると、小躍りしながら、すぐ京を立って、伏見から三十石で大坂へ下った。が、その夜遅く、兄の宿っている高麗橋の袂《たもと》の宿屋を尋ねたとき、不幸にも兄が大和から紀州へ回る
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