卑怯である。帰参のときに、一旦、僧形になったいい訳が立つわけではない。
 彼は、ともすればみだれ立とうとする心を、じっと抑えた。老僧が、薪束を右の肩に担いでいるために、右の顎が隠されているのこそ幸いである。彼は、その右の顎を見まいと思った。ちょうどその時に彼は広い道へ出た。彼は老僧の方を振り向きもしないで、一目散に駆け抜けた。
 が、天道は皮肉に働いた。昼時の行斎《ぎょうさい》が終って、再び薪作務が始まったときである。彼は、燃え上ろうとする妄念の炎を制しながら、薪束を作っていた。彼は不足している薪を集めようとして、周囲を見回した。四、五間かなたに生えている榧《かや》の木の向うに、伐られたその枝が、うず高く積まれているのを見出した。榧の木の下を潜って、彼が向う側へ出た時である。今までは、心づかなかったその木陰に、昼前の老僧が俯向きながら薪を束ねている。と思った刹那、老僧は彼の足音をきいて半身を上げた。彼は、嫌でもその顎を見ずにはいられなかった。傷が古いために色こそ褪せていたが、右の口元から顎にかけて、かすった太刀先がありありと残っている。
「おのれ!」
 彼は、口元まで、そんな言葉が出かかった。が、彼の道心は勝った。彼は一瞬の間、老僧を見つめると、踵《きびす》を翻して自分の薪束の所へ帰った。
 でも、彼の心は容易には収まらなかった。彼は、薪束の中の太い棒を見ていると、それを真向に振り翳《かざ》して、敵の坊主頭を叩いてやりたかった。まだ、一年と安居《あんご》をしていない彼の道心は、ともすれば崩れかけた。彼は、足下の薪束を茫然と見つめながら迷った。迷った末に、彼は辛うじて自分の妄執に打ち勝った。
 が、自分の心が不安でならなかった。一旦は思い捨てても、どういう機会に、再び妄念に囚われるかもしれない。どんなはずみで相手を打ち殺すかもしれない。彼は、自分の道心の勝利を、何かに誓っておきたかった。二度と再び、未練な妄執に囚われないために、何かに誓っておきたかった。
 それは、敵の老僧に打ち明けておくより、いいことはないと考えついた。在俗の折の妄執として、話しておこう。そして、現在の自分が、それに打ち勝ち得たことを相手に話しておこう。そして、敵の手をとって、快く笑おう。敵にそれと明かした以上、どんなに妄執の力が強くとも、束《つが》えた言葉を破ることはないだろう。彼はそう思うと、でき上がった薪束を、痩せた肩に担ぎ上げて、歩みさろうとする老僧を呼び止めた。
「何御用!」
 彼は、敵の言葉を初めて耳にしたのである。また、心が乱れようとするのを抑えた。
「貴僧にききたいことがある」
「なんじゃ」
 老僧は落ち着きかえっている。
「余の儀でない。貴僧はもと雲州松江の藩中にて、鳥飼八太夫とは申されなかったか」
 僧の顔色は動いた。が、言葉は爽やかであった。
「お言葉の通りじゃ」
「しからば重ねて尋ね申す。貴僧は松江におわした時、同家の山村武兵衛を打った覚えがござろうな」
 さすがに老僧の顔色は変った。が、言葉はなお神妙であった。
「なかなか。して、其許《そこもと》は何人《なんびと》におわすのじゃ」
 老僧は、かなり急《せ》き込んだ。
 惟念は、努めて微笑さえ浮べながらいった。
「愚僧は、今申した山村武兵衛の倅、同苗武太郎と申したものじゃ。御身を敵と付け狙って、日本国中を遍歴いたすこと十余年に及んだが、武運拙くして会わざること是非なしと諦め、かような姿になり申したのじゃ」
 老僧は老眼をしばたたいた。
「近頃神妙に存ずる。愚僧は、今申した通りの者じゃ。御自分の父を打って松江表を立ち退き、その後諸国にて身上を稼ぎ申したが、人を殺した報《むく》いは覿面《てきめん》じゃ。いずこにても有付《ありつ》く方《かた》なく、是非なく出家いたしたのじゃ。ここで御身に巡り合うのは、天運の定まるところじゃ。僧形なれども子細はござらぬ。存分にお討ちなされい」
 老僧の言葉は晴々しかった。
 惟念は淋しい微笑を浮べた。
「討つ討たるるは在俗の折のことじゃ。互いに出家|沙門《しゃもん》の身になって、今更なんの意趣が残り申そうぞ。ただ御身に隔意なきようにと、かくは打ち明け申したのじゃ。敵を討つ所存は毛頭ござらぬわ」
 老僧は折り返していった。
「いやいや、さようではござらぬぞ。ここは、御自分よくよく覚悟あるべきところじゃ。われらは、身上の有付きなきための、是非なき出家じゃ。御自分は違う。われらを討ち申されて帰参なさるれば、本領安堵は疑いないところじゃ。その上、我らを許して安居《あんご》を続けられようとも、現在親の敵を眼前に置いては、所詮は悟道の妨げじゃ。妄執の源じゃ。心事の了畢《りょうひつ》などは思いも及ばぬことじゃ。在俗の折ならば、なかなか討たれ申すわれらではないが、かようの姿なれ
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