の旧藩主の邸へ久しぶりに御機嫌伺いに行くと、そこで伊織と偶然会った。
「やあ、しばらく」
「おう、蘆沢の伯父さんですか」新一郎は、なつかしかった。
「高松藩士で、新政府に仕えている者は、非常に少ない。貴公などは、その少ないうちの一人じゃ。大いに頑張って、末は参議になってもらいたい」と、伊織はいった。
「いや、そうはいきません。やはり、薩長の天下ですよ。薩長でなければ、人ではありませんよ」と、新一郎は、薩長の権力が動かすべからざるものであることを痛嘆した。
「そうかな。そういえば、高松などは立ち遅れであったからな。しかし、会津のように朝敵になりきってしまわなくてよかった。貴公たちの力で、早く朝廷へ帰順したのは、何よりであった。お国の連中も、今では貴公たちの功績を認めておるぞ」
「そうですか。それは、どうもありがとう」
その時、伊織はふと思いついたように、話題を変えた。
「貴公は、成田の娘を知っておるのう」
「知っています」新一郎は、何気なくいったが、頬に血が上ったのを、自分でも気がついた。
「貴公の許嫁であったというが、本当か」
「ははははは。そんな話は、古いことですから、よしましょう」と、冗談にまぎらせようとすると、伊織は真面目に、
「いや、そうはいかんよ。あの娘は、貴公が東京から迎えに帰るのを、待っているという噂だぜ」
「本当ですか。伯父さん」新一郎は、ぎょっとした。
「本当らしいぜ、どんな縁談もはねつけているという噂だぜ。貴公も、年頃の娘をあまり待たすのは罪じゃないか。それとも、東京でもう結婚しているか」
「いや、結婚などしていません」新一郎は、はっきり打ち消した。
「早くお八重殿を欣ばせたがよい、ははははは」
「ははははは」新一郎も、冗談にまぎらして笑ったが、しかし心の中は掻き乱された。彼は、お八重を愛していないのではなかった。しかし、自分は、正しくお八重の父の仇である。この事実を隠してお八重と結婚するのは、人倫の道でないと思ったからである。
といって、お八重に対する思慕は、胸の中に尾を曳いていて、他の女性と結婚をする気にはなれないのであった。
新一郎は、婆やと女中と書生とを使って、麹町六番町の旗本屋敷に住んでいた。家も大きく、庭も五百坪以上あった。
国に残した両親は、いくら上京を勧めても、国を離れるのは嫌だといって東京へ出て来なかった。
国の両親を見舞かたがた、新一郎はお八重姉弟の様子も知りたく、一度高松へ帰省したいと思ったが、頼母を殺した記憶が、まだ生々しいので、いざとなると、どうしても足が向かなかった。
明治五年になった。その年の四月五日であった。新一郎が四時頃役所から帰ると、出迎えた女中が、
「お国から、お客様がお見えになっております」といった。
「国から客! ほほう、なんという名前だ」
「成田様といっておられます」
「成田!」新一郎は、懐かしさと恐怖とが、同じくらいの分量で胸に湧き上った。
居間に落ち着いてから、女中に、
「こっちへお通し申せ」と、いった。
(万之助だろう、万之助も今年二十二か、そうすればお八重殿は二十三かな)
と、思いながら、待っていると、襖が開いて、頭を散髪にした万之助が、にこにこ笑いながら現れた。
「よう」新一郎も、懐かしさに思わず、声が大きくなった。
「お久しぶりで!」万之助は、丁寧に両手をついた。そして、
「姉も同道しておりまする」と、いい添えた。
「お八重殿も!」
新一郎は、激しい衝撃を受けて、顔が赤くなったのを、万之助に見られるのが恥かしかった。
「さあ。どうぞ、こっちへ!」新一郎は、座蒲団を、自分の身近に引き寄せた。
お八重が、襖の陰から上半身を出して、お辞儀をした。お八重が顔を上げるのが、新一郎には待ち遠しかった。
細く通った鼻筋、地蔵型の眉、うるみを持ったやさしい目、昔通りの弱々とした美しさであったが、どこかに痛々しいやつれが現れていて、新一郎の心を悲しませた。
姉弟は、なかなか近寄ろうとはしなかった。
「さあ。どうぞ、こっちへ。そこでは話ができん。さあ、さあ」
自分が敵であるという恐怖は薄れ、懐かしさ親しさのみが、新一郎の心に溢れていた。
「貴君方の噂も、時々上京して来る国の人たちからもきき、陰ながら案じていたが、御両人とも御無事で、何より重畳じゃ」
「お兄さまも、御壮健で、立派に御出世遊ばして、おめでとうございます」
昔通り、お兄様と呼ばれて、新一郎は涙ぐましい思いがした。
「今度は、いつ上京なされた?」
「昨日参りました」
「蒸汽船でか」
「はあ。神戸から乗りまして」
「それは、お疲れであろう。お八重殿は、一段と難儀されたであろう」
初めて新一郎に言葉をかけられ、お八重は顔を赤らめて、さしうつむいた。
「只今は、どこに御滞在か」
「蘆沢様に、お世話になっております」
「左様か。拙者の屋敷も、御覧の通り無人で手広いから、いつなりともお世話するほどに、明日からでもお出《いで》になってはどうか」
「ありがとうございます。そうお願いいたすかも知れませぬ」
万之助も、昔に変らぬ新一郎の優しさに、涙ぐんでいた。
「今度、御上京の目的は、何か修業のためか、それとも仕官でもしたいためか……」と、新一郎がきいた。
万之助は、しばらくの間、黙っていたが、
「それについては、改めてお兄様に、御相談したいと思います」と、いった。万之助の目が急に険しくなったような気がして、新一郎はひやりとした。
その日、姉弟は夕食の馳走になってから、いずれ三、四日のうちに来るといって、水道橋の松平邸内に在る蘆沢家へ帰って行った。
が、三日目の夕方、姉弟の代りに、伊織がひょっこり訪ねて来た。
珍客なので、丁重に座敷へ迎えると、盧沢伊織はいきなり、
「お八重殿が、とうとう辛抱しきれないで、東京へ出て来たではないか」
「……」新一郎は、なんとも返事ができなかった。
「貴公は、姉弟にいつからでも家へ来いといったそうだが、ただ家へ呼ぶなんて、生殺しにしないで、ちゃんと女房にしてやったらどうだ」
「はあ……」
「はあじゃ、いけない。はっきり返事をしてもらいたい。お八重殿も、もう二十三だというではないか。女は、年を取るのが早い。貴公はいくら法律をやっているからといって、人情を忘れたわけではあるまい。昨日も、ちょっとお殿様に申し上げたら、それは是非まとめてやれとの御意であった。昔なら、退引《のっぴき》ならぬお声がかりの婚礼だぞ。どうだ、天野氏!」
新一郎は、返事に窮した。お八重いとしさの思いは、胸にいっぱいである。しかし、もし婚礼した後で、自分が父の敵ということが知れたら、それこそ地獄の結婚になってしまうのだ。こここそ、男子として、踏んばらねばならぬ所だと思ったので、
「御配慮ありがとうございます。あの姉弟のことは、拙者も肉親同様、不憫に思うております。されば家に引き取り、どこまでも世話をいたすつもりでございます。しかし、お八重殿と婚礼のことは、今しばらく御猶予を願いたいのでござりまする」
「頑固だな。権妻《ごんさい》でもあるのか」
「いいえ、そんなことは、ございません」
「それなら、何の差し支えもないわけではないか」
「ちと、思う子細がございまして……」
「世話はするが、婚礼はしないというのか」
「はあ」
伊織は、少し呆れて、新一郎の顔をまじまじと見ていたが、
「貴公も少し変人だな。じゃ、家人同様に面倒は見てくれるのだな」
「はあ、それだけは喜んで……」
「そうか。じゃ、とにかくあの姉弟をこの家へ寄越そう。そのうち、そばに置いてみて、お八重殿が気に入ったら、改めて女房にしてくれるだろうなあ」
新一郎は、少し考えたが、
「そうなるかもしれませぬ」と、眩くようにいった。
五
お八重と万之助が、新一郎の家に来たのは、それから四、五日後であった。
お八重は、新一郎の妻ではなかったが、自然一家の主婦のようになった。
新一郎の身の回りの世話もしたし、寝床の上げ下ろしもした。
新一郎も、お八重を妻のように尊敬もし、愛しもした。駿河町の三井呉服店で、衣装も一式調えてやったし、日本橋小伝馬町の金稜堂で、櫛、笄《こうがい》、帯止めなどの高価なものも買ってきた。
が、新一郎の居間で、二人きりになっても、新一郎は指一つ触れようとはしなかった。
お八重が来てから、二月ばかり経った頃だった。その日、宴会があって、新一郎は、十一時近く微酔を帯びて帰って来た。お八重は、新一郎をまめまめしく介抱し、寝間着に着かえさせて、床に就かせた。
が、新一郎が床に就いた後も、お八重は、いつになく部屋から出て行こうとはしなかった。
蒲団の裾のところに、いつまでも座っていた。
新一郎は、それが気になったので、
「お八重殿、お引き取りになりませぬか」と、言葉をかけた。
とお八重は、それがきっかけになったように、しくしくと泣き始めた。何故、お八重が泣くか、その理由があまりにはっきり分かっているので、新一郎も、急に心が乱れ、堪えがたい悩ましさに襲われた。
いっそ、すべてを忘れて、そのかぼそい身体を抱き寄せてやった方が、彼女も自分も幸福になるのではないかと思ったが、しかし新一郎の鋭い良心が、それを許さなかった。私利私欲のために殺したのではないが、親の敵には違いない。しかも、それを秘して、その娘と契りを結ぶことなどは、男子のなすべきことでないという気持が、彼の愛欲をぐっと抑えつけてしまうのである。
彼は、しばらくはお八重の泣くのにまかせていたが、やがて静かに言葉をかけた。
「お八重殿、そなたの気持は、拙者にもよく分かっている。長い間、拙者を待っていて下さるお心は、身にしみて嬉しい。今も、そなたを妻同然に思っている。しかし、夫婦の契りだけは、心願のことあって、今しばらくはできぬ。そなたも心苦しいだろう、拙者も心苦しい。が、あきらめていてもらいたい。そのうちには、妻と呼び夫と呼ばれる時も、来るでござろう」
新一郎の言葉には、真実と愛情とが籠っていた。
お八重は、わあっと泣き伏してしまった。
が、しばらくして泣き止むと、
「失礼いたしました。おゆるし下さいませ」というと、しとやかに襖を開けた。
(お八重どの!)新一郎は、呼び返したくなる気持を危く抑えた。
六
万之助は、上京の目的を改めて話すといったままで、そのままになっていた。そして、新一郎の屋敷へ来てからも、毎日のように出かけて行った。
最初は、学問の稽古に出かけているのかと思っていると、女中などの話では、剣術の稽古に通っているとのことで、新一郎は何かしら不安な感じがしたので、ある晩、万之助を膝元に呼んで、
「そなたは、毎日剣術の稽古に通っておられるとのことであるが、本当か」と、きいた。
「はあ」
万之助は、素直に頷いた。
「さようか。それは少しお心得違いではないだろうか。今、封建の制が廃《すた》れ、士族の廃刀令も近々御発布になろうという御時世になって、剣術の稽古をして、なんとなされるのじゃ。それよりも、新しい御世に身を立てられるために、文明開化の学問をなぜなさらぬのじゃ。福沢先生の塾へでもお通いなされては、どうじゃ」
万之助は、しばらくうつむいて黙っていたが、やがて、
「お兄様には、まだ申し上げませんでしたが、子細あって、剣法の稽古をいたしておりまする」
「子細とはなんじゃ」
「万之助は、敵討がしたいのでございます」
「えっ!」新一郎は、ぎくっとして、思わず声が高くなった。
「父頼母を殺された無念は、どうしても諦めることができません」
「……」
新一郎は、腸《はらわた》を抉《えぐ》られるような思いがして、口が利けなかった。
「私は、父が側《わき》腹を刺され、首を半分斬り落されて倒れている姿を見ました時、たとい一命は捨てても、敵に一太刀報いたいと決心したのでございます。が、御維新になりまして、敵討などももう駄目かと諦めておりましたところ、明治三年に御発布になりました新律綱領によりますと、
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