新一郎を討手にするつもりはなかったらしく、小泉は、
「いや、天野氏、貴殿はお控えなされたがよい。貴殿を、左様な苦しい立場に置くことは、我々の本意ではない」と、おだやかにいった。
「いや」新一郎は、わずかに膝を乗り出しながら、「貴殿方の御好意はよく分かっている。そのお心なればこそ、拙者に中座せよといわれたのであろう。しかし、先ほども申した通り、私事は私事、公事は公事。この場合左様な御|斟酌《しんしゃく》は、一切御無用に願いたい」と、はっきりいい切った。
「しかし、天野氏、貴殿は成田殿御息女とは、すでに御|結納《ゆいのう》が……」と、小泉がいいかけると、新一郎は憤然として、
「天下大変の場合、左様な私情に拘《こだわ》っておられましょうや。無用な御心配じゃ!」と、喝破した。
 皆はだまった。そして、新一郎の意気に打たれて、凛然と奮い立った。

          三

 しかし、天野新一郎の心事は、口でいうほど思い切ったものではなかった。尊王の志は、人並以上に旺んではあったが、しかし彼は、成田一家とは、元来遠縁の間であったし、かなり深い親しみを持っていた。
 頑固一徹な成田頼母も、平生は風変りな面白い老人で、沖釣りが何よりの道楽で、新一郎も二、三度は誘われて、伴をしたことがある。
 長男の万之助は、今年十七で、これは文武両道とも、新一郎に兄事していて、
「お兄さん! お兄さん!」と、慕っている。
 その姉の八重が、一つ違いの十八で、新一郎との間に結納が取り交わされるばかりになっているのであるが、世間が騒しいので、そのまま延々になっているのだ。
 だから、成田邸の勝手は、自分の家同様に心得ている。
 成田邸への襲撃は、その夜の正《しょう》子《ね》の刻と決った。
 先手は、吉川、幸田に新一郎を加えて三人、二番手は小泉、山田に、久保三之丞の三人。
 新一郎は、同志の手前、平気を装っていたが、さすがに心は暗く、足は重かった。
 小泉が、
「無用の殺人は絶対に慎むよう。家来たちが邪魔をすれば、止むなく斬ってもよいが、頼母殿さえ倒せば、後はどんどん引き上げる。ことに、嫡子万之助殿などは怪我させてはならぬ」と、皆に注意してくれたのが、新一郎としては、嬉しかった。
 さすがに、明朝の出陣を控えて、城下はなんとなく騒々しかった。いつもは暗い町が、今宵は灯が洩れる家が多く、子の刻近くなっても、物音人声などが外へきこえる家が多かった。
 六人は、銘々黒布をもって、覆面をした。成田邸は、淋しい馬責場《うませめば》を前に控えた五番町にあった。
 新一郎は、一度は二番町の自邸に帰り、家人たちには、寝たと見せかけて、子少し前に、わが家の塀を乗り越えて、馬責場へ急いだ。
 正子の刻には、六人とも集った。
「天野氏、近頃心苦しいことではござるが、成田邸への御案内は、貴殿にお願い申す」と、山田がいった。
「承知|仕《つかまつ》った」
 新一郎の顔が、蒼白になっていることは、月のない闇なので、誰も気がつかなかった。
 成田邸の裏手の塀に、縄梯子がかかった。
 新一郎は、一番に邸内へ入った。
 泉水の向うの十二畳が頼母の居間、その次の八畳を隔てて向うに、お八重殿の居間がある。どうか起きて来てくれるなと、心に祈った。
 たとい、覆面していても、お八重殿や万之助には、姿を見られたくないと思った。
 雨戸を叩き破る手筈で、かけや[#「かけや」に傍点]を用意してきたが、しかしそれでは邸内の人々を皆目覚してしまうことになるので、他に侵入口を探すことになった。
「天野氏、どこか破りやすい所は、ござるまいか」山田が、新一郎にささやいた。
「ある。中庭の方へついた小窓」そう答えた刹那に、新一郎は後悔した。いくら、大義名分のためとはいえ、そこまではいわなくたってもいいのではなかったかと、思った。
 六人は、庭を回って、中庭に入った。なるほど、直径《さしわたし》二尺ぐらいの低い窓が、壁についている。格子形に組んである竹も細い。小泉は、小刀を抜くと、一本一本音を立てぬように、切り始めた。山田も手を貸した。
「幸田殿、貴殿はいちばん身体が小さい。ここから、潜って入って、雨戸をお開け下されい」
「よし、来た」幸田は、大小を小泉に渡すと、無腰になって、潜りぬけた。
 そして、中から大小を受け取りながら、
「天野氏、桟はどこだ。ここの端か、向うの端か」ときいた。
「たしか向うの端」
 幸田は、廊下を忍んで歩いて行った。
 外側の五人も、忍び足で雨戸の向うの端へ歩いた。
 桟を上げる音が、かすかに響いた。雨戸が、低い音を立てて開いた。皆、刀を抜いた。小泉が、「天野氏、どうぞお先に。みんなみんな静かに」と、いった。先手の連中が先へ出た。
 そこの廊下に添うた部屋は、お八重殿の部屋である。灯がかすかにともっているが、熟睡しているのであろう。気づかない様子である。
「この部屋!」廊下を十間ばかり歩いた時、新一郎は振り返って、そっとささやいた。
 障子がさっと開かれた。そのとたん、
「何奴じゃ」もう十分用意し切った声が、先手三人の胸を衝くように響いた。
 頼母は、すでに怪しい物音に気がつくと、手早く寝間着の上に帯を締め、佩刀《はいとう》を引き寄せていたのである。
「天朝のために、命を貰いに来た!」吉川が低いが力強い声で叫んだ。
「推参《すいさん》! 何奴じゃ、名を名乗れ!」頼母は、立ち上がると、刀を抜いて鞘を後へ投げて、足で行灯を蹴った。
 が、行灯が消えると同時に、山田が持っていた龕灯《がんどう》の光が室内を照した。
 小泉は、広い庭に面した雨戸を、ガラリガラリと開けた。進退の便に備えるためである。
 龕灯に照し出された頼母は、寝床のそばから、飛び返って、床柱を後に当てて、二尺に足らぬ刀を正眼に構えていた。老人ながら、颯爽たる態度である。
「おう!」吉川が斬り込んだが、老人はさっと身を屈《こご》めて、低い鴨居のある違い棚の方へ身を引いた。勢い込んで斬りつけた吉川の長刀が、その鴨居に斬り込んだので、あわてながら刀を抜こうとする隙を、老人は身を躍らして、吉川の左肩へ、薄手ながら一太刀見舞った。
 さすがに、小太刀組打を主眼とする竹内流の上手である。
 吉川が斬られたのを見て、幸田が素早く斬り込んだが、老人は床柱の陰に入って、それを小楯に取りながら、小太刀を片手正眼に構えている。
 邸内が、ざわめき出した。手間取っては、大事である。主謀である小泉はあせった。
「天野氏! 天野氏!」彼は思わず新一郎の名を呼んでしまった。新一郎が、自分の名を呼ばれてはっと驚いた以上に、老人が驚いた。
「新一郎か、新一郎か!」老人は、狂気のように目を据えて、覆面の新一郎を睨んだ。
 新一郎は、熱湯を呑む思いであった。
 先刻からも、頼母の必死の形相に、見るに堪えない思いをしながら、際あらばと、太刀を構えていたのであるが、相手にそれと知られては、いよいよ思い乱れて、手練の太刀先さえ、かすかに震えてくるのであった。
「天野氏、拙者が代る!」いら立った山田が、新一郎を押しのけようとする。こうなっては、新一郎も絶体絶命の場合である。
「助太刀無用、拙者がやる!」新一郎は、そういって、山田を押しのけると、「伯父上、御免!」と、必死の叫びを挙げて、相手が楯にしている床柱を逆に小楯にして、さっと身を寄せると、相手の切り下ろす太刀を避けながら、左の片手突に、頼母の左腹を後の壁に縫いつけるほどに、突き徹した。
 幸田が、右手から止めの一太刀をくれた。
 小泉はかけ付けて来た家来たちと、渡り合っていたが、頼母が倒れるのを見ると、
「方々、引き上げ! 引き上げ!」と叫ぶと、手を負うている吉川を庇《かば》いながら、先刻引き上げの用意に開いておいた裏口の方へ走り出した。
 新一郎は、倒れた頼母の死屍へ、片手を挙げて一礼すると、いちばん後から庭へ飛び下りた。
「曲者《くせもの》待て!」万之助の声がきこえた。
(万之助殿、お八重殿許せ!)彼は、心でそう叫びながら、泉水を飛び越えると、同志たちの後を追った。
「待て、卑怯者待て!」万之助の声が、四、五間背後でした。が、新一郎は後を見ずに走った。

          四

 成田頼母横死の報は、高松藩上下の人々を震撼させた。翌朝の出兵は、延期された。
 それは、佐幕主戦派にとっては、大打撃であった。
 藩論は、たちまち勤王恭順に傾いた。藩主|頼聡《よりとし》の弟である頼該《よりかね》の恭順説が、たちまち勢力を占めた。
 藩論は、鳥羽伏見の責任を、出先の隊長であった小夫兵庫、小河又右衛門の二人に負わせて、切腹させることになった。
 二人の首が、家老蘆沢伊織、彦坂小四郎の手で、その時姫路まで下っていた四国鎮撫使、四条侍従、四条少納言の陣営へ届けられた。
 土佐の兵、丸亀藩の兵は、高松城下に二、三日滞在しただけで、引き上げた。
 そして、輝かしい王政維新の御世が来た。
 成田頼母を暗殺した人々は、その翌日、その翌々日にかけて、高松を出奔した。
 新一郎も、一緒に逃げようとすると、小泉も山田も止めた。
「貴殿は、天野家の嫡子として、身分の高い人じゃ。我々が下手人の罪を負うて脱藩すれば、誰も貴殿を疑う者はあるまい。貴殿は、藩に止まって、国のため一藩のために尽してもらいたい。一度、朝敵の汚名を取った藩の前途は、容易なことではあるまい。貴殿のなさるべき仕事は、たくさんあると思う」という彼らの意見であった。
 新一郎は、下手人の筆頭は、自分であることを思うと、自分だけ止まることは、いかにも心苦しかったが、しかし、小泉や山田と共に脱藩して、万之助やお八重に、自分が下手人であると知られるのも、嫌だった。
 新一郎が悩んでいるうちに、小泉たちは、城下の西の糸ヶ浜から、次々に漁船を雇うて、備前へ逃げてしまった。
 成田頼母の下手人は、小泉、山田、吉川、幸田、久保の五人に決定してしまった。
 しかも、王政維新の世になってみると、佐幕派の頼母の死は、殺され損ということになって、下手人たちを賞賛こそすれ、非難するものはなかった。
 まして、天野新一郎を疑う者などは、一人もない。
 頼母の遺子の万之助もお八重も、新一郎を疑うところか、父なき後は、新一郎を唯一人の相談相手として、頼り始めた。
 新一郎が勤王派であったことは、新一郎の立場を有利にして、明治三年に彼は太政官に召されて、司法省出仕を命ぜられた。
 成田頼母を斬った六人の同志のうち、小泉主膳は長州の藩兵に加わって北越に転戦していたが、長岡城の攻囲戦で倒れた。幸田八五郎は、薩の大山格之助の知遇を得て薩軍に従うていたが、これは会津戦争で討死した。
 久保三之丞は、明治元年の暮近く京都で病死した。
 残った三人のうち、山田甚之助は近衛大尉になっており、吉川隼人は東京府の警部になっていた。
 天野新一郎は、学才があるだけに出世も早く、明治も五年には東京府判事になった。
 が、彼は高松を出てから、成田頼母の遺族を忘れることはなかった。
 許嫁《いいなずけ》同様の、お八重の美しい高島田姿を時々思い出した。お正月や端午の節句などに成田家へ遊びに行くと、酒好きな頼母の相手をさせられたが、そんな時には、きっとお八重が、美しく着飾ってお酌に出た。
 頼母の横死の後も、お八重や万之助は少しも新一郎を疑わなかった。しかし、新一郎は、良心に咎《とが》められて、自分から成田家へ足を遠ざけた。
 お八重の父親の死に加えて、維新の変革が続いて起ったので、新一郎とお八重の縁談は、そのままになってしまった。
(もう、お八重殿は、きっとどこかへ縁付かれたであろう。それともまだ家におられるだろうか)
 新一郎は、東京に出てからも、時々そう考えた。
 お八重に貞節を守っているわけではなかったが、新一郎もまだ結婚しないでいた。先輩や同僚から縁談を勧められたが、なんとなく気が進まなかった。
 明治四年の春に、高松から元の家老の蘆沢伊織が上京して来た。新一郎とも遠縁であったし、成田の家とも遠縁であった。
 新一郎が、水道橋
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