新一郎は、十一時近く微酔を帯びて帰って来た。お八重は、新一郎をまめまめしく介抱し、寝間着に着かえさせて、床に就かせた。
 が、新一郎が床に就いた後も、お八重は、いつになく部屋から出て行こうとはしなかった。
 蒲団の裾のところに、いつまでも座っていた。
 新一郎は、それが気になったので、
「お八重殿、お引き取りになりませぬか」と、言葉をかけた。
 とお八重は、それがきっかけになったように、しくしくと泣き始めた。何故、お八重が泣くか、その理由があまりにはっきり分かっているので、新一郎も、急に心が乱れ、堪えがたい悩ましさに襲われた。
 いっそ、すべてを忘れて、そのかぼそい身体を抱き寄せてやった方が、彼女も自分も幸福になるのではないかと思ったが、しかし新一郎の鋭い良心が、それを許さなかった。私利私欲のために殺したのではないが、親の敵には違いない。しかも、それを秘して、その娘と契りを結ぶことなどは、男子のなすべきことでないという気持が、彼の愛欲をぐっと抑えつけてしまうのである。
 彼は、しばらくはお八重の泣くのにまかせていたが、やがて静かに言葉をかけた。
「お八重殿、そなたの気持は、拙者にもよく
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